僕は、その鬼気迫る表情にすっかり惹きつけられてしまいました。
僕が、今まで見聞した『最もビールを美味そうに飲む人』のひとりは、映画『幸せの黄色いハンカチ』の主人公です。
(ここから先は、この映画をまだ見ていない方にできるだけ配慮して書きますが、それでも内容には触れないわけにはいかないので、『これこれ、まだその映画見てないんだけど・・』という方はご注意ください。)
この映画を見たのは、確か中学生のときだったと思います。
僕の兄のみどりしょうごろうが、
「おい、今日テレビで『幸せの黄色いハンカチ』をやるぞ!ぜったあい、見ろ!」
と半ば強制的に推薦したためです。
なんでも彼の通う学校で、この映画の上演会があって、しょうごろうは痛く感動したそうです。
その映画の中の、僕の記憶の範囲によると、冒頭部分で、高倉健演じる主人公が刑務所から出所し、その足で、とある大衆食堂に入ります。
そして、壁のメニューを無表情に一瞥すると、低くくぐもった声で、こう注文をします。
「醤油ラーメンと、カツ丼下さい。」
表情を変えないまま、しかし主食を二つも頼むところに、囚われの身であった背景が強く表現されています。
それから、主人公は、料理の到着を待たずに、また、ぼぞぼそと追加で店員に頼みます。
「ビールください。」
「はい。」
如何にも大衆食堂らしく、瓶ビールと素っ気無いガラスコップが無造作に主人公の前におかれます。主人公は、これまた淡々と、ビールをコップに注ぎ、一気にぐいっ、と飲み干します。
すると、いままでの無表情が一転、高倉健の表情がにわかに、しかし、豊かに歪みます。
主人公は、食道を伝って一気に押し寄せてくる『数年ぶりのビールの味』と『数年ぶりの自由の実感』を、己が五臓六腑では受け止めきれないのだ、と言わんばかりに、顔をくしゃくしゃにし、やや下顎を突き出して、声にならない小さな、しかし、力強いため息と共に、喜びとも悶絶とも取れるなんともいえない、万感胸に迫る、という表情を見せるのです。
僕は、その鬼気迫る表情にすっかり惹きつけられてしまいました。
「うわあ、うまそうだなあ。」
いまだにそのシーンは頭に焼き付いています。
もっとも、その時、僕はまだ中学生だったので、もちろんビールの美味しさなど知る由もなく、もっと正確に表現しようとするのであれば、
『眼に焼きついた高倉健が色褪せないうちに大人になり、ビールの美味しさを知るとともに、そのシーンの説得力を都度追認してきた。』
ということと思われます。
後年大人になって、ラグビーをしたあとに、会社にはいって仕事を放り投げて(それも頻繁に、ですが)隣の部の田淵くんと平日の夜中に、三宅奈美さんと念願かなってデートしたときに、山案山子の恋愛相談にのりながら(正確にいうと相談にのるふりをしながら)、遠く日本を思いながら南半球のひとり暮らしのアパートの部屋で、三宅奈美さんに突然別れを切り出された居酒屋で・・・・、色んな状況でビールを飲みながら、ああ、あのときの主人公の表情は、そういうことだったのか、と美味いビール、苦いビール、無味乾燥なビール・・・を味わいながら無意識のうちにあのシーンが僕の心の中でなんども上書きされてきたわけです。
ことほどさように、そのときの高倉健の表情はなんともいえないものでした。
ところで、肝心の映画全体に関してですが、僕の『幸せの黄色いハンカチ』を見ての主な感想は、
『これっぽっちも感動しなかった。』
です。
「ええ、それはないでしょ!?」
と思われた方も多いかと思います。
いや、その通り、この映画のどこにもケチをつけるつもりはありません。それに、僕みたいな輩に評価してもらいたくはないでしょうけど『いい映画』だと思います。
でも『まるで、心を動かされなかった』んです。
なぜ?
それはですね、この映画を強烈に推薦した、みどりしょうごろうの所業に負う所が大きいんです。
彼は、この映画にあまりに感銘を受けたあまり、弟に見ることを薦めただけではなく、放送中、ずっと僕の傍らにいて口角泡を飛ばしながら、いちいち『ここという場面』を先回りして説明したのです。
「いいかけいた、ここでだな、高倉健が・・」
ほう、なるほど。
「このあと!このあとところが、武田鉄矢と桃井かおりは・・」
まあ、確かにその通りなんだけど・・。
「な?実は!倍賞千恵子はだな・・・」
ちょっと黙っててくれないかなあ・・・。
まさに微に入り細に穿っての解説です。
そして、それは結局ラストシーンまで続いてしまったのです。
ほぼ、全てのシーンを先回りして述べられてしまった僕に、兄は、映画の放送が終わるにあたって、自慢げにかつ声高に、
「なっ?なっ?すんげえ感動するだろっ!??」
と止めをさしました。
いや、『全然・・・。』なんですけど。
というわけで、僕が『幸せの黄色いハンカチ』から学んだことは、-これはこの映画の関係者の方が意図したことではないかもしれませんが、それでも僕は、痛切に、かつ、真剣に心を揺さぶられたんです。-、
『状況がビールの味を決めるのだ!』
ということです。
前にも書きましたが、ある事情からもう何年も禁酒を余儀なくされている僕ですが、念願かなって飲酒を再開できたときにも、きっとあのシーンが想起されると思います。
今から楽しみです。
===終わり===
僕は、なんでそんなことになったのか理解ができずに一瞬、きょとん、としてしまいました。
2,3ヶ月前のことです。
その日、確かある祭日だったと思います。
僕は息子と二人で近所のファミリーレストランで食事をしておりました。
といっても、僕はドリンクバーを注文しただけで、さい君の不在を守る一環で息子の食事につきあった、というのが実態です。僕は息子が彼の好物のイカリングとパンケーキを頬張りながらする、他愛のない発言に適当に付き合っていました。
途中、かかってきたのか、息子がかけたのかは記憶にありませんが、彼の日本人の方の祖父(僕の父、みどりかずまさですね。)と彼が携帯電話で会話を始めます。
どうやら、息子はなにか買ってもらいたいものがあるらしく、かずまさにおねだりを(しかし、かなり高圧的な態度で、です。そこは、孫可愛さに、孫のほうが無意識につけこんで横暴に振舞う、というのはどこの家族でもよくみられる光景でしょう。)しています。
そして、買いに行くための予定の掏り合わせをかずまさとしているようです。
顔の半分ほどもある携帯電話を(さすがにまだ10歳ですので)、しかし慣れた手つきで扱いつつ、午後の陽をレストランの窓越しに背中に受けながら息子は目の前のパンケーキには暫時手をつけずに熱心にかずまさと大きな声で議論しています。
「え?じゃあさあ、じじは、いつだったらいいの?」
「え??その日はフジはともだちとザリガニをとりにいくからだめなの。」
どうも両者の日程の摺り合わせは難航してしているようであるな、思いつつも、僕は助け船を出すでもなく、むしろ息子の相手から暫時解放されたのをいいことに、ただ漫然と彼の発言に耳を傾けていました。
「だから、だめだって!え?だからあ、じじはいつならいいの??え?・・・『今週の日曜日』???」
息子は彼なりにかなり苛立ってきています。
そして、やおら、
「ふ~~~、」
と大きくため息をつくと、小さい子に噛んで含めて言い聞かすように、しかし決然と言いました。
「あのねえ、じじ。いい?じじはさ、さっきから『今週の日曜日』っていうけどね、いい?じじ、いっしゅうかんていうのはね、にちようびが、はまじまりなんだよ!だからさ、『今週の日曜日』っていうのはもうおわってるんだよ、わかる?」
そのときです。僕の耳にさして大きい声でもない隣のテーブルの中年夫婦と思われるお客さんの、会話の断片が突然飛び込んできました。
「確かに、そうだ。あはは。」
「そうよねえ、正しいはよね。うふふ。」
僕は、なんでそんなことになったのか理解ができずに一瞬、きょとん、としてしまいました。
つまり、僕が全く関心も注意も払っていなかった隣のテーブルのお客さんの会話が、それもさして大きな声でもない会話の、しかも断片が、なんで唐突に僕の耳にすんなりと入ってきたのか判然とせず、困惑してしまったのです。
僕が、はて?と、隣の席のほうに視線を遣ると、中年夫婦は、僕の息子のほうを見て笑っています。
ん???
・・・・・ほう、そうか・・。
数秒の時間を経て、僕は得心しました。
世の中には『正論』というものがあります。
しかし、その一方で正論に従うだけでは、得てしてことはうまく運びません。
なぜなら『正論』が正論であるがゆえに、逆に習慣として立場を確立しているアンチテーゼというものもあるからです。
息子は、まだ義務教育の真っ只中にいるわけなので、いわば、正論を100%学ぶこと、が彼のお仕事なわけです。これはこれで、まっとうな生業です。だって正論も学ばないのに、正論とは相反する習慣だけいきなり学んだら混乱しちゃうじゃないですか。
一方で、齢70を過ぎ、未だに長きに亘ってサラリーマンとして働いているかずまさは(ありがたいことです。)、いわば正論に対するアンチテーゼの権化みたいなものです。サラリーマン生活が長いから、土曜日と日曜日は平日に働いたご褒美としての『週末の連休』として捉えているわけです。
日曜日は、本来『週の初めである』にもかかわらず、です。
そして、そういう宮仕えの権化達の間では、例えば、
「おい、たまには飲みに行こう。」
「おお、いいね、でも平日はちょっと。最近忙殺されていて。」
「そうか、なら週末でもいいぞ。今週の日曜日はどうだ?」
という会話に対して、
「おい、おまえなあ、何をいってるんだ、一週間は日曜日から始まるから今週の日曜日はもう終わってるぞ。わかるか?」
なあんていう『正論』を主張する人はまずいないです。
そこは忖度して『今度の日曜日のことを言ってるんだな?』となるので、
「おお、今度の日曜日ならあいてる、いいぞ、是非行こう。」
となるわけです、たいていの場合は。
世の中『正論』だけでないほうが潤滑にいくこと、が少なからずある、ということですね。
僕は息子の発言を心身共に頬杖をつきながら聞いていて、彼の祖父に対する『説教』を耳にし、父親の感覚も理解するも、内心苦笑いしつつも、
「確かに!そら、そうだ。」
と息子の吐いた『正論』に心の中で賛同していわけです。
その声無き呟きと、それを心の中で僕が呟くタイミングが、声優が絵に声をかぶせるように、隣のお客さんが声にだした時とぴったり重なったんでね。
その『共振』のせいで、耳をそばだてもいない隣の会話がするりと僕の耳に飛び込んできたわけです。
ふむ、ふむ。
隣のお客さんも、実はなんとはなしに、声を張り上げる息子と祖父の会話に耳を傾けていて、息子が真剣に吐いた『正論』におもわず、膝を叩いて、
「確かに!それは正論!お孫さんよ、あんたが正しい!」
となったわけです。
息子と彼の祖父の日程は交渉の末、うまく調整がつきました。
一方で、今回は『資本主義に揉まれとうの昔に自分を見失い、最早何が正論で何がアンチテーゼなのかも判然とせず、因習だの建前だの長いものだの上司の価値観だの、に散々まみれている父親』にとっては、
『正しいことを頑迷に主張することは、時にたった一言で野次馬までをも頓悟させる説得力がある。』
ということを改めて息子から教わった日となったのであります。
===終わり===
言葉の学習というのは切りがありません。
僕は、さい君とは普段さい君の母国語で話しているけれど、正直いってまだまだ勉強を要する身で、毎日のようにさい君との会話の中でも知らない単語に出会います。そのたびに、うわあ、また出た、とげっそりしつつもそれらを学習して語彙の厚みを増すことに努めています。
でも、考えてみたら、日本で生まれ育った人で『日本語を100%会得しているぞ』という人も殆どいないんじゃないでしょうか。
斯く言う僕も数日前のこと、新しい日本語を覚えました。
その言葉とは『借屍還魂』という言葉です。
忘れないようにこの場を借りてすぐ使っちゃうんであります。
巷間よく言われているように『覚えた単語をすぐ使う』というのは言語をマスターするためには非常に有効な方法です。
つい先日、会社からの帰宅中のことです。
僕はいつものように最寄駅を降りて、自宅への道を歩いていました。
その道は、駅舎と建物に挟まれた100メートル程度の長さのとても狭い、そうですね、人を自動車に例えると『2車線ぎりぎり』といった感じで、だいたい人間2人が横に並ぶと道が塞がれてしまうくらいの道幅です。そのうえに、場所柄もあって夜にはかなり暗くなります。しかし、抜け道になっていることもあって、時間帯によっては結構な量の人が行き交っています。
そのときも、比較的通行人の多い時間帯で、僕の前を行く人たち、向こうからやってくる人達、が暗闇の中に何人もいる気配がしました。
ちょうど僕が道の真ん中あたりに来た頃です。
僕の数メートル前を歩いていた若い女性が、突然、物凄く切れのいい、なんの躊躇もない、一歩のみで完遂した美しいUターンをして、駅のほうに、つまりは僕のほうに向かってかなりのスピードで歩いてきました。
なんだか、抗い難い力に道を塞がれてさっさと潔く引き返した、という感じです・・・。
おや?この人、なんか忘れ物でもしたのかな・・・・、いや忘れ物にしたら、踵の返し方がシャープすぎるだろ・・とぼんやり思いつつも、僕は引き続き僕の進むべき道を歩いていました。
くだんのUターンした若い女性は、僕とすれ違う形になり、駅のほうへと消えていきました。
と、数メートル先の様子がどうもおかしいです。暗闇ではっきりは見えませんが、なんだか『バタバタ』していて、視覚的には全然わかんないんですけど、なんとなく『ただ事ではない何物か』が伝わってきます。
おかしいなあ、この道は、だいたい細い道で、車はもちろん、自転車ですら通ったのを見たことが無いから通行人はその主たる目的である通行を粛々と行うだけのはずなんだけどな、と僕は思いながらも、行き先上のその『バタバタ』におのずと近づいていきました。
ようやく、視界にその『バタバタ』を捕らえる距離まできて、つまりかなり接近してみて、驚愕しました。
なんとそこでは『凄いストリートファイト』が行われていたのです。
片や、学生風の黒いフード付きのパーカを着た若い男性、片や、青いジャケットにノータイの40歳絡みのサラリーマン風の男性です。
ストリートファイトはサラリーマンが優勢に見えました。
「くうおのお、くそがきいいっ!」
と罵倒しながら、一発、二発、とパンチを頭部にヒットさせています。
黒いパーカのほうは、手数では、負けながらも、
「どっちが、おかしいんだよ!」
「警察いこうぜっ、警察によおお!」
とパンチを食らいつつ、よけつつ、青ジャケットを口で盛んに非難して応酬しています。
どうも、すれ違い様に、肩が触れたかなんかで、そのときのサラリーマンの態度が気に入らなくて、学生がひとことふたこと(あるいはもっと)非難をして、それに青ジャケット逆上、ストリートファイト、ゴング!となったようなんです。
僕の前を歩いていた若い女性は忘れ物をしたわけでもなんでもなく、おそらくは、このファイトの開始前から場面になんとなく立ち会ってしまい、ゴングが鳴るや否や『まずい』と瞬間的、かつ本能的に判断し、通過するわけにもいかず、もと来た道を引き返した、ということだったんですね。
夜道をひとり歩きしている女性の立場からすれば当然です。
それと、ストリートファイトを目撃したことがある方、あるいはしたことがある方はおわかりになると思いますが、ストリートファイトには、ボクシングや映画などの喧嘩のシーンとは違った、独特の緊張に包まれた『バタバタ感』があります。ストリートファイトは、ボクシングと違ってスポーツではないのでフットワークなんて無いし、映画と違って脚本も無いので『リズム感』が全くないからです。でも憎悪はすごいから、いや、憎悪のみが動機になっていたりするので、それだけにその『バタバタ感』には真に迫った緊張感があるんですね。このバタバタが先程まだ視界で捕らえられなかった僕にも『ただ事ならん何物か』を感じさせた所以です。
僕は、なんとなく歩いてきて、なんとはなく接近した結果、眼前に迫ってしまった喧嘩に大いに戸惑ってしまいました。なにせ『2車線でぎりぎり』の道なので、2台の車にめちゃくちゃに走り回られたら、ほぼ道が塞がれちゃうんであります。
青ジャケットと黒パーカは依然、バタバタと、しかし猛烈な鼻息でやりあっております。
「おいおい。勘弁してくれよおお。なんだって俺のまん前で、なんだ?」
はて、どうしたものかな・・・。
先程の女性のように駅に戻って、別のルートで家に帰るか?それもなんだか面倒だな。
ではお二人には申し訳ないが、陣中を邪魔して強硬突破するか?でも巻き添えを食う危険がある、それは小心者の僕としては避けたい。
じゃあ、どうする・・・。
僕は、その凄いストリートファイトを、-それも意図せずに『砂かぶり』において、-、眺めながらほとんど思考停止した状態にありました。
周りには数人の人がいましたが、先刻の踵を返した若い女性以外は、皆だいたい僕と同じような感じで、懐手をして少し離れて見守っています。
と、そのとき、青ジャケットがさらに攻勢に出て、黒パーカをロープ際、じゃなかった、道の片側、駅舎と反対の塀側に大きく追い込み、僕の前に一人分くらいが歩けるスペースの余裕ができました。
しめしめ。
僕は、今を逃すものかと、ストリートファイトに巻き込まれないように、横をするりとやり過ごし、喧嘩の裏側に出ました。
ふう、と安堵の息をついた僕は、余裕からか、後ろを振り返り、ストリートファイトの現状にちらりと眼を遣りました。青ジャケットの攻勢は以前続いており、黒パーカのガードの上から、パンチを激しく当てています。依然としてだれも関わっていません。
ところが僕は、僕としたことが、なんだか『巻き込まれたくない』という気持ちより(それはかなり大きな気持ちでしたけど)より大きな罪悪感に苛まれて、なんとあろうまいことか振り返って喧嘩に正対すると仲裁を試み始めました!
及び腰で(巻き添えを食らったらいつでも逃げられるように)、ふたりを刺激しないように、アクセントを全く殺した小さな声、-スターウオーズの登場人物で言うとC3POのようにおろおろと平坦な口調でー、で、
「ヤメロ、ヤメロ、ヤメロ。」
と、言いつつ、極力柔らかく両手を出し、駄目だったら、駅を挟んで反対側に交番があるからおまわりさんに丸投げしちゃえばいいや、と黒パーカと、青ジャケットを制してみました。
すると、ああいうのって、やっぱり熱くなって自分では止めどころがわからない、というものなのか、意外や意外、豈図らんや僕の『ソフトな仲裁』が功を奏し、青ジャケットが口ではまだ、
「この、くそガキ!」
なんて言いながらも、まず攻撃を収め、黒パーカと距離を取り始めました。
そして、黒パーカも、自分がしていたイヤホンが、
「お前のせいでどっかにいっちまったじゃないか、ええ、おい!」
とか言いながらも、手を引きかけました。
その上に、一旦仲裁がはいると応援が入るものと見えて、いつのまにか分別のありそうな40代後半と思しきネクタイをした紳士が僕の真後ろに立ってくれていて、穏やかな声で、
「もうやめましょう。やめましょう。やめましょう、これで。」
と仲裁を応援してくれました。
青ジャケットは、道に落ちていた自分の鞄をひったくるように掴むと、
「ばーか、このくそがき!」
と捨て台詞を残して、興奮さめやらぬ風情で足早に駅と反対の方向に去っていきました(もちろん、僕らには挨拶などないです。まあ、興奮してるから無理ですよね。流れ弾が飛んでこなかっただけ良しとします)。
僕も、うむ、よかった(その80%は『自分に流れ弾が飛んでこなくてよかった』の『よかった』ですけど。)と思いつつ、黒パーカを残して帰宅の途につきました。
ああ、怖かった。くわばら、くわばら。
今回はたまたまうまくいったけど、次回はどうしようかな。
・・・・ええと、僕は、何の話を・・・。
おおお!そうそう、そうです!
帰宅してすぐ、さい君に顛末を報告しました。
「いやあ、たった今そこで、喧嘩に道をふさがれちゃってさ・・」
「へえ、それでどうしたの?」
「うん、それで、俺には珍しくさ、」
と、そこで、僕は、あれ?そういえば、さい君の国の言葉で『仲裁する』ってたまたま今日、眼に触れたばっかりだったよな、でもなんていうんだっけ?と固まってしまいました。
「ええと、ほら『けんかはやめろやめろ』っていうの、ユウの国の言葉でなんていうんだっけ?」
「え?仲裁?」
「そう!それ、仲裁したんである!」
「へえ、ケイタにしては珍しいんじゃない?いつも遠巻きによけるのに。」
「そうそう、それでさ、ええ?なんだって?やっぱりそうか?」
「そうよ。いつも逃げてるじゃない。」
「・・・うん、まあ、とにかく、今日はその・・・なんだっけ?」
「仲裁」
「そう!あんたのだんなさんは、仲裁に成功したんであるぞよ。」
そういうことがあったおかげで、さい君の母国語で『仲裁する』という言葉をその日僕はすっかり、自家薬籠中の物にしたのであります。
というわけで、巷間よく言われているように『覚えた単語をすぐ使う』というのは言語をマスターするためには非常に有効な方法である、ということを身をもって実感した日でありました、という話でした。
尚、借屍還魂(しゃくしかんこん、屍を借りて魂を還す)というのは、Wikipediaによれば(広辞苑には載ってませんでした。)、
『兵法三十六計の第十四計にあたる戦術。亡国の復興などすでに「死んでいるもの」を持ち出して大義名分にする計略。または、他人の大義名分に便乗して自らの目的を達成する計略。さらに、敵を滅ぼして我が物としたものを大いに活用してゆく計略も指す。』
ということが出自だそうです。
難しいです。
日本語でさえこれですから(厳密に言うと借屍還魂の出典は中国ですけど)ましてや外国の言葉の学習って、ほんとうに、切りがないです。
=== 終わり ===
僕は、人間の性格というものはそうは変わらないと思ってたんですけど存外そうでもないかもしれません。
よそ様に比べて『圧倒的に小心』で『格段に行動力の無い』僕が(ああ、それなのに僕は20年弱も営業という職種にあったんであります。なんというミスマッチ!)どうも前回書いた桃山公園デイキャンプ場の使用許可条件のひとつで、10番目に書いてある、
『10 1人のみの使用はしないこと。』
が気になってしまって、なんと大立目市役所へ電話してしまったのです。
僕の性格や歴史からいうと、考えられない豪胆で且つ行動力溢れる快挙、いや暴挙かな、です。
市役所の代表番号に電話し、極力丁寧な言葉で、-だって、問い合わせの内容が内容なだけに『暇人のいちゃもん』と思われて(実際そうじゃないのか、と言われると論破できませんが。)門前払いなんかされたら困るじゃないですか-、桃山公園デイキャンプ場使用許可書について聞きたいことがあります、と訊ねました。
すると、代表から担当部署に回されました。
僕はその、20代男性と思われる訥訥と話す担当者に、お忙しいところ誠にすまんことであるが、桃山公園デイキャンプ許可書の使用許可条件について疑問があるので教えてくれたまい、なぜ『10 1人のみの使用はしないこと。』とあるんでしょうか?と、これまた礼を失しないように話しました。
すると、その朴訥な担当者氏は、しばし絶句、その後、
「・・あ、ああ・・・」
と、意味不明な声を発した後、
「し、しょうしょう、お待ちください。」
と言うなり、長い保留にしてしまいました。
あれ?俺はなんかたいへんなことを聞いちゃったのかな?こちらには疑問でも、条件として書いたほうの立場なら返答するのは簡単なことなんじゃ・・・と思いながら僕が、
「・・・・・・」
といった感じで待っていると、ようやく担当者氏が再度電話口に登場しました。
「たいへん、お待たせしました。あ、あの、調べましてこちらから後ほど折り返させていただいてよろしいでしょうか?」
え?いや、そんな大層なことではないんじゃ・・・?あの長い保留はなんだったのかな?
でもそういわれたら待つしかないです。僕は、心ならずも僕の携帯電話番号と僕の名前を教える、という経過を伴って、先方からの返答を待つことになりました。
ところが、これが全然折り返しかかってきません。
10分経ち、20分経ち・・・・30分が過ぎました。
あれ??そんな凄いことを聞いたかな?いや、俺の電話番号を担当氏は間違えてメモしたのか?それともめちゃくちゃ忙しくて、それどころじゃなかったのか?こんなに、長い間担当者氏の人件費≒市民の税金、を俺ひとりで使っているのはなんだか不本意だなあ。こちらから再度かけたほうがいいのかな?
・・・・などといろんなことを考え、やや不安になっていると、先の電話から40分後(正確には41分後)、市役所からようやく電話がありました。
「ええ、こちら緑さんの携帯ですか?」
「はい、そうです。たいへん、ご面倒をおかけします。」
「いえ、ええとですね、先ほどのご質問なんですけど・・」
おお、ついに僕の疑問が氷解する時がやってきたようです!
「ええ、ひとりで使用してはいけない、というのはこちらとしてはできるだけ、たくさんの方に使用していただきたい、ということがあるのと・・」
ふうん・・・、と?
「と、その上の『4 火気を扱うときは、満16歳以上の者を火気取り扱い責任者として定め、火気を使用中は、必ず現場に常駐させること。』というのがありまして・・・」
「はあ・・」
ふむ、それで?
「・・はい、その4番のことがありまして・・」
いや、だからそれはさっき聞いたんである。
「はい・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
なんとここで、どうも会話が不成立に陥ったようです。
これではいかんと(何がどう『いかん』のかわかりませんが。)、僕は会話再開の糸口を探りました。
「ええと、その4番とひとりでやってはいけない、いうのはどういうふうに関係があるんですか?」
「はい、はい、ええとですね、火気の近くに必ず責任者を常駐させる、ということで、はい・・」
・・ふむ、ひとりでは火気の注意がおろそかになりがちだ、というわけか、でも???
「でも、別にひとりでも常に火の近くに居続けることはできるんじゃないですか?」
だいたい、ひとりでバーベキューをする人がいるとしたら、その人がバーベキューのそばから離れる、という状況の方が想像しにくいです。(ご参考までに、トイレはその小さなバーベキュー場に隣接しています。だから現実的にハーべキューをしている人は数メートルも歩けばトイレに辿り着きます。ええと、壁に囲まれたそれなりに立派なトイレなので、近いからといって別に臭ったりはしません。これもご参考まで。)
僕は疑問を投げかけました。
すると、担当者氏は、
「あ、はい、ええ・・・・4番には『火気取り扱い責任者を定め、火気を使用中は、必ず現場に常駐させること。』となっていますので・・」
と、またしても使用許可条件を棒読みしました。
「で?・・・」
「はい・・・」
「・・・それはひとりでもできるんじゃないですか?」
「・・ええ『必ず現場に常駐させること』となっていますので、はい・・」
だから、それも先刻聞いたんである。
「ひとりですると火の近くに常駐できない、ということですか?」
「ええ、はい。4番がありますので・・はい・・」
いや、だから、それは答えになっていないんじゃ・・・。
「・・・・・」
「・・・・・」
僕の努力もむなしく、再度会話不成立となってしまいました。
どうも、担当者氏は、そのことに40分をまるまるかけたのかどうか、はともかくとして、奇特な市民からの奇異な質問を上司に丸投げして、その上司の回答を、そうですね、想像するに、こんな具合で、
課長「なんだあ?なんでひとりでやってはなんでいけない?だあ?」
担当「はい。」
課長「この忙しいのに・・・今までそんな質問してきた奴はいないぞ。ちょっと許可書もってこい。」
担当「はい。」
課長「そいつには、この、4番を良く見ろと言え、ひとりじゃ4番を遵守するのは無理だろ。」
担当「は、はい」
と(言葉使いはそんなにやくざかどうかは別として)いう上司の言葉を市民向けに丁寧にしただけで、実質はこれらを僕に丸投げしてこられたんだ思われます。
だから、僕がしつこく、4番、それがどうした、4番と言えど、ひとりで可能じゃないの?とちょっとひねくれた変化球を投げると、会話が成立しなくなっちゃうんですね。
僕は、完全に納得したわけではないけれど、そもそもが疑問を解決したかっただけで、是が非でもひとりでバーベキューをやらせろ、という趣旨からの質問でもなかったので(このことはもちろん、冒頭に担当者氏には伝えました。)、これ以上市民の税金を使うことも忍びなく、これにて撤退することに決めました。
そこで、お礼を言って、最後に僕はブログをやっているんですけど、今教えていただいたことを書いてよろしいか?と確認をしました。
すると、果たして担当者氏は、
「ブ、ブログですか?・・・・し、しょうしょうお待ちください。」
と言うと、電話はまたしても短からぬ保留になってしまいました。
ありゃ、書いてもいいか、いけないか、を聞いただけなのに・・・は、はあ、また課長(推定)に聞きに行かれたな、と思いつつ待っていると、しばらくして、担当者氏が電話口に現れ、今までと変わらぬ丁寧な口調で、課長からの丸投げを(おそらく)読み上げてくださいました。
「ええ、こちらから書くなとは言えません。が・・」
『書くなとは言えません』というのも、横柄のか、謙虚なのか、よくわかんない表現です。
「・・が?」
「が、今までこのような細かい問い合わせは無かったので、」
ふむ、やはり、こんなことを問い合わせするのは奇特なことであったか。
で?
「誤解が生じる懸念があります。」
・・・んん??
『生じる懸念があります』って、なんだあ???
僕はてっきり続きがあるものと思って電話口で待っていましたが、担当者氏は『あります。』と言いあげたきり、黙ってしまいました。
これは、『指示』でもないし『お願い』でもないし『判断』でもないですよね。だって僕にブログに書かれて『誤解を懸念する』のは市役所であって、僕ではないですから。
強いて言えばこれは、市役所の課長(推定)の『感想』とか『所感』とか、或いは『ちょっと力強くしてみたつぶやき』です。
僕は、また会話が僕から離れて宙に浮いてしまったような隔靴掻痒感を覚え、そのぷかぷかと浮いた言葉の端っこにすがるように、念を押しました。
「え、あの・・・、ということは書いてはいけない、ということですか?」
繰り返しますが、僕にしてみれば、書いても『良い』か『駄目』か、それだけ伺えればいいんです。
「あ、いえ、こちらから書くなとは言えませんが、こういう細かい問い合わせは今までなかったことなので、誤解が生じる懸念があります。」
「・・・・・」
「なので、細かいことは市役所に直接お問い合わせいただいたほうがいいかと思われます。」
担当者氏は同じことを繰り返されたうえに、僕が全然意図していないコメントまで追加されました。
「・・・・・」
みたび、会話不成立です。
おそらく、これも課長(推定)との間で、
担当「あの、さっきの方がブログに書いていいかと、聞いてるんですけど・・」
課長「あんだあ、ブログだあ?面倒だなあ。まあ、表現の自由があるからこっちから書くな、とは言えないよな。でも、今までこんな細かい問い合わせを受けたことがないから、そのブログがどんな内容かわからんから、それを読んだ人がそれをそのまま市の見解と理解したりしてして妙な誤解を生じる懸念はあるよな。だいたいブログで桃山公園の使用許可条件を記すなんて何様として書くんだ?だから細かいことはこちらに聞くのが筋だよなあ。」
担当「はあ。」
課長「わかっただろ?」
担当「は、はあ。」
なんて会話があって、それを担当者氏がまた丁寧な言葉に直して僕に丸投げされたもの、と思われます。
だから、回答の仕方が『書くなとは言えません。』とか『誤解を招く懸念があります。』というように、なんだか原稿の棒読みかの如く、会話の投げ手と受け手の判然としない、しかも返答にもなっていない結ばれ方で終わってるんでしょう。
これ以上話しても埒があかなさそうだったので、結局『書くなとは言えません』というお言葉を頼んで、書くことに決めて、お礼をいって電話を切りました。
結論。
①桃山公園バーベキュー場はできるだけ多くの人に使ってもらいたい。
②ひとりでは火の番がおろそかになる可能性がある、と思われている。
③そんな細かいことをいちいち市役所に聞いてくる人はいない。
④僕と大立目市役所桃山公園担当の方とは会話が成立しない懸念があります。
=== 終わり ===
先日、日曜日にバーベキューをしました。
メンバーはさい君の知り合いのご家族で、我が家を入れて、4家族15人です。そのうち3組が僕のところと同じように、旦那さんが日本人、奥さんがさい君の国の方という構成です。
僕はすでにみなさんとは顔馴染みです。
場所は、僕の家から徒歩で5分とかからない、大立目市桃山公園です。
この公園は、そうですね、100メートル四方に満たないくらいの中規模な公園ですが、一応野球なんかできるグランドが一面あって、池があって、桜の木があって、遊技場があって、それに、中にジムだのプールだのがあるトレーニングセンターまである、なかなか充実している公園です。
その一角、数本の桜の木の下あたりに、二十坪にも足らない小さな小さなバーベキュー場があります。
でも、そこでバーベキューがされている光景はほとんど見かけないですね。
いわば穴場です。
バーベキューといっても、要は、肉だの野菜だの焼きそばだのをいつもと違って、わざわざ手間隙かけて外で食べる、っていうだけなんですけど、暑くもなく寒くも無い公園で、それらがまだ人々の耳目を集めて主役になる時季には程遠い桜の木々に見守られつつ、小さい場所ながら周りを気にせずに、わいわい言って食べ物が焼かれるのを待つ、というのもなかなか悪くないもんです。
食べるのに飽きた子供たちは、公園内で遊具で遊んだり、鬼ごっこをしたり、木に登ったり、バドミントンをしたり、もできるので、これも好都合です。
穴場だけあって、そこでその日バーベキューをしているのは、僕ら以外には4人組が一組いただけでスペースを満喫するには十分すぎるくらいでした。
バーべキューの準備中に(と言っても、僕自身はこういう時もからっきし役に立たず、他の方が手際よく炭火をを起こしたりしている横でぼうっと立っているだけ、ですけど。)さい君が突如、
「ちょっと、ケイタ、これ読んで。」
とA4サイズの紙を僕に突きつけました。
「なんで?」
「友人の子供さんが、花火をもってきちゃったんだけど、花火をしていいって書いてある?」
見ると、そのA4サイズの紙は、バーベキュー場使用の許可証でした。そうなんですね。この公園は、市の持ち物なので、小さい場所ながらも、バーベキューをするときは市役所に届け出て許可を得なければならないんです。
さい君にしては珍しく、そういう公の決まりをちゃんと守って届け出てあったわけです。
どれどれ・・・。
『大立目市桃山公園 デイキャンプ場使用許可書』
とものものしくあり、ちゃんと市長印まで押されています。
おお、ここは『デイキャンプ場』だったのか、でもこんな駅からすぐの公園の数坪の空き地でキャンプなんかする人がいるのかな、と思いつつ、僕は、さい君の指示に従って、目を通していきます。
さすが市役所、なかなか立派な使用許可書です。
『許可番号 G26-67』
市役所らしいです。ちゃんと許可番号まであるんであります・・・。
『使用する公園 大立目市桃山公園デイキャンプ場及びバーベキュー場』
『当日の使用責任者 住所・・・氏名・・・電話番号』
『使用日時 2013年10月・・・・午前9時00分から午後16時00分まで』
『使用目的 バーベキュー』
『使用人数 大人9人 小中学生1人 幼児5人 計15人』
『火気の種類及びコンロ等の種類型式番号等 炭』
とまあ、結構な記載事項があって(『コンロの型式番号』っていう問いかけもなかなかのもんですよね。)そのあとにはじめて、
『使用許可条件』と印刷されており、14ヶ条のそれがずらずらと並べてありました。
『1 かまど及野外卓等指定された場所以外で火気を使用しないこと。』
『2 キャンプファイヤーは禁止する。』
『3 裸火は禁止する。』
『4 火気を扱うときは、満16歳以上の物を火気取り扱い責任者として定め、火気を使用中は、必ず現場に常駐させること。』
『5 かまど及び野外卓等は、使用後火元の鎮火を確認した後、直ちに清掃し、現状に回復させること。』
『6 燃えかす、灰等は指定された場所に片付け、生ゴミ等は使用者が持ち帰ること。』
『7 テントの設営等の際に穴又は、溝を掘らないこと。』
と、いかにも市役所らしい指示が、こう言うと怒られちゃうかもしれないけれど、いわば四角四面な市役所らしい文言で、書かれております。
『火気取り扱い責任者を・・現場に常駐させる』などという表現のいかめしさなどは市役所的文面の面目躍如たるところでしょう。
8番目に、こうありました。
『8 花火をしないこと。』
これ以上に無い端的な答えをみつけた僕は、さい君に伝えました。
「ああ、だめだな、花火だめだってさ。」
「そう、残念、まあしょうがないね。」
「うん。」
というわけで、某家族が持ってきた花火は惜しくもその日は使わないことになりました。
だいたい、昼間だから花火をしてもしょうがないです。
・・・僕は、そのあともなんの気なしに、その『使用許可条件』の9番以下を漫然と読んでいたんですけど、突如声を上げて噴き出してしまいました。
『9 拡声器、音響装置等(カラオケ含む)を使用しないこと。』
ここまでは、まあ普通です。
「・・え?うわはははは!」
僕の噴出し方があまりにも、大仰だったので、さい君からもちろん、さい君の友人もからも、
「緑さん、どうしたの?」
と図らずも注目を集めてしまいました。
「いや、こんなのありかな、と思ってさ、ぐははは!」
「なになに?」
僕が、その条件を訳してあげたら、果たして、
「ええ?ほんとうにそんなこと書いてるの?」
と皆さん、半分驚き、半分笑ってました。
僕が虚を突かれて、盛大にうけたのはその次の10番です。
『10 1人のみの使用はしないこと。』
そんなの勝手じゃないですかっ!?
「そんなの基本的人権だよねええ?」
と僕が思えず大時代的な言葉まで使って言ったら、さい君の友人も笑いながら深く頷いていました。
役所のすることというのは、時に僕ら凡百の民間人の考えなど到底及ばないようです。
そもそも、なんで、ひとりでバーベキューとかキャンプとかをしてはいけないんでしょう?わざわざ、市長の印鑑のつかれた使用許可書に使用許可条件のひとつとして念を押して書くべきことなのかしらん・・・。
僕は、ちょっと真剣に考えてみましたけど、なかなかこれだ、という答えが浮かびません。
①一人でバーベキューしたり、キャンプしたりしたら、ホームレスの人か、一般のひとか見分けがつかないからかな?いや、見分けがつかないとして、なんか公共の福祉的に問題があるか?
②それとも、家出人と見分けがつかないからかな?でも家出人が炭で火を起こして肉を焼いたりするかなあ?
或いは、『変わった人』だと看做されて市役所や警察に通報が殺到して面倒くさいからか?・・・そうでもなさそうだなあ。
③それか、火が服に引火したりしたときに、一人だと延焼を防げないからか?でもそれならバーベキューだけ禁止してキャンプは許可してもいいんじゃ??
④いやいや、大立目市にはひとりでバーべキューをやるような孤独な人はいないことになっているので、行政を司る立場からは都合上そういう市民が存在するのは『見るにしのびない』からなのか・・・?
⑤ちょっと待てよ、こういうある種突拍子も無い禁止事項は普通は思いつかない、ということは『過去に桃山公園で一人でバーベキューかテントをしてなんかトラブルを起こした市民がいた』事から学習したのか?でもどんなトラブルだ??
それに、禁止することはないだろう、なんでだ?とも思いますが、同時に『そもそも論』として
『一人でベーべキューをする人』
っているんですかね?
だって、それにわざわざ一項目を割いて『禁止事項にする』っていうことはそういう人がいるに違いない、ということをが前提になっているから、でしょう?その場にいた僕らのグループの皆さんも、そんな人いないよねえ?と、異口同音に言っていました。
例えて言うと、ええとそうですね、昨今話題になっている日本国憲法だと『国家というものは油断して放置しておくと何かと大義名分を拵えて武装して戦争に走りがちである』という大反省と大前提から『日本国憲法第9条』があるんじゃなかったっけ?というように、です。
この日本国憲法第9条の理屈を『大立目市桃山公園デイキャンプ場使用許可書 使用許可条件 10項』に敷衍すると『大立目市民は油断して監視を怠るとつい一人でバーベキューをしがちである』という大反省(?)と大前提があるから、ということになるんであります。
これはいっぱしの謎です。
いや、俺はひとりでバーべキューを敢行したことがあるぞ大立目市長の主張はよく分かる、あるいは、そういう御仁を見聞したことがある、というお方は是非、詳細をご教示ください。
・・・・どうも、未だに禁止の理由もわかんないし、そういう人がいるだろうという前提も解せません。大立目市長や市役者の人はこの理由や前提がすっぽり腹におさまるのかなあ?
ま、思えずみんなとひとしきり盛り上がって笑えたのはよかったですけど。
でもやっぱり・・・・、わざわざ『禁止事項とする』ほどのことかなあ、それこそ日本国憲法で保障されている『基本的人権』を蹂躙してませんかね?
===終わり===
誠に面目がございません。
『ニドボッキ』は僕が述べたように前回で終了する予定でしたが、後日談が出来て(拵えて、かな?)しまったので、今回もお付き合いください。
小人閑居して不善をなす。
僕は『ニドボッキ』と『日本ドッジボール協会』との関係の有無についてさらに詳しく調べてしまったのです。
まず、大胆にも本丸の『日本ドッジボール協会』へ電話しようと企みました。
我ながら、なんという社会的生産性の低い人でしょう!?
日本ドッジボール協会のホームページには何故か住所のみで電話番号が記載されていないので、NTT104に問い合わせました。
こんなことを協会に聞いたらどやしつけられるかなあ、なんて思いながらドキドキしつつ104のオペレーターの返答を待っていました。
ところが世の中にとっては幸いなことに、しかし僕にとっては不幸なことに104の返答は『該当ございません。』でした。
あれ??
電話番号わかんないのか・・・・。なんだ・・・・。
さっきまでのドキドキ感は風船がしぼむようにしゅるしゅると小さくなっていき、僕は切歯扼腕しました。
「これじゃあ、調べようがないじゃないか!」
という、わけで『所ジョージさん。3』でした。
===終わり===
・・・・と、なるところでしたが、天知る地知る、意思あるところに道あり、捨てる神あらば拾う神あり、ひょんなことから僕自身は大して努力もしていないのに、協会とは接触できなかったものの、長くドッジボールに関わられているお方の話をメールで伺うことができることに相成りました。
その方は、-今、仮にA氏とします-、一面識もない僕の、一瞥にすら値しない質問に、能う限り詳細に文書でご返事をしてくださいました。
僕がA氏に投げた、傍若無人、厚顔無恥、その暇人としての面目躍如たる質問内容の概要と骨子は以下の二つです。
①『パオパオチャンネル』という番組内での『日本ドッジボール協会公認ドッジボール大会』というコーナーは、日本ドッジボール協会、あるいはその前身団体が実際に公認されていたものなのか?全く関係ないのか?
②さらに上記の番組内で『日本ドッジボール協会』を『略してニドボッキ』と紹介されていたが、このことはドッジボール協会側では承知のことか?また、もし承知とすれば斯様な略称で呼ばれていたことに関してはどのように考えているのか?
このような概要の質問に参考として『パオパオチャンネルWIKIPEDIA』と、僕が怪しい者ではない(どこをもってして僕と僕のブログが『怪しくない』と判断するか、には僕自身でさえちょっと考えちゃうところですが。)、また真剣に知りたいのだ、という背景として固定読者数十人しか(もっと増えてほしいなあ。ご友人・知己に本ブログが心の琴線に触れそうな方がいたら、-そういう奇特な方はあんまりいないと思いますけど-、宣伝をお願いします。)いないが、一応ブログに書きたい、そのブログはこういうものです、と本ブログのアドレスも添付しました。
これに対し、A氏は(先述のように、メールでのやりとりだけで僕とは面識はございません。)下記の如く、まことにご丁寧に返事をしてくださいました。
以下、誤解を招かないように、A氏のご返答を引用していきます。
『まず、協会設立年との兼ね合いについては、ブログでご指摘の通り、当該番組が終了後にJDBAが設立されていますので、当該番組放映時に呼ばれていた協会名は現在の組織とは異なる空想のものではないかと思われます。』
・・いきなり核心にせまるご推測です。やはり、略称『ニドボッキ』はフェイクだったようです。さらに、A氏はご自身の知っておられる範囲で、それをもっと細かく論証してくださいました。
『また、当該番組(筆者注:パオパオチャンネルのことですね。)のメインスポンサーは小学館ですが、JDBAの設立に際して深く関わった出版社は講談社です。
小学館はその頃「ドッジ弾平」という連載を行っており、後にアニメ化されました。
ドッジ弾平で取り上げられた競技は『スーパードッジ』であり、漫画の中の協会名は『日本スーパードッジ連盟』です。
ドッジ弾平は小学館のコロコロコミックで取り上げられ、JDBAのドッジボールは講談社のコミックボンボン内で『爆風ドッジ』の連載を基に設立されました。
いわばライバル社同士が同企画で勝負をしていたので、こういった状況を考えると、小学館がメインスポンサーの番組がJDBA設立の契機となることは考えにくいです。
もしそうなっていたとしたら、爆風ドッジは小学館で連載されているはずだと思います。』
・・・おお、なるほど!
深いです!
『パオパオチャンネルと日本ドッジボール協会』の背景には要約すると以下のような『大人の事情』、もっと言えば『資本主義経済的事情』があった(らしい)わけです。
パオパオチャンネル -小学館-ドッジ弾平
日本ドッジボール協会-講談社-爆風ドッジ
これは素人にはわからないし、想像もできません。貴重な推理です。
さらに、A氏のご回答は続きます。
『なお、当該番組内でのコーナーや呼称などについて、少なくとも私がドッジボールに関わってきた中でお会いした方々のドッジボール関係者の誰かがそのような話をしていたという記憶はありません。』
これは、ちょっとした衝撃でした。
インターネットで検索したら『ニドボッキ』だけで200件も-
(僕の数少ない女の子の友人のひとりの、まつしまみこさんが、前回までのブログを読んで『パオパオチャンネル ニドボッキ』での82件、よりも『ニドボッキ』だけならもっとたくさんヒットするよ、とわざわざ教えてくれました。なるほど確かに『ニドボッキ』なら200件以上ヒットします。ああ、なんと罪なことを!僕と僕のブログは、まつしまみこさんに『ニドボッキ』なんていう文字を入力せしめてしまったわけです。彼女のご両親に謝罪したいです。ありがたいやら、申し訳ないやら・・・・。)-
ヒットするこの言葉は、24年以上にわたって連綿とある種のひとびとの記憶に留まっているのに、ドッジボール競技者の間では口の端にものぼっていないようなんです。
続きます。
『また、パオパオチャンネル自体、幼少期に見ていた記憶はかすかにありますが、私自身の記憶に残っているのは、所さんが消しゴムのかすを集めて消しゴムを作る企画をしていたくらいのものです。』
誠実な方です。ご自身の個人的なパオパオチャンネルへのスタンスまでご開示くださいました。ちなみに、僕は『所さんが消しゴムのかすを集めて消しゴムを作る企画をしていた』ことは全く記憶にございません。が、なかなか生産性が低くて個人的にはそういうのは嫌いじゃないです。
最後にA氏は下記のようなコメントで最後を締めてくださりました。
『私自身、持っている知識と経験の中でお答えできることは以上です。
なお、JDBA会長について現在は馳浩氏ですが、設立当時は森喜朗氏だったことを申し添えます。
宜しくお願いいたします。』
おお、A氏はなんと僕のブログを一読くださりこちらからの質問内容では触れなかった『ニドボッキを払拭したいのなら何故、会長は馳浩先生なのか?』という僕のいちゃもんともとられかねない愚問にも反応してくださったのです。
東京で今度五輪があるみたいですが、例えば閉会式で、大雑把に五大陸対抗くらいの括りで選手や大会関係者を分けて国立競技場を使って壮大なドッジボールでもしないかな。
日本で育った人ならみんな子供のときにやった経験があるだろうから馴染みが深くて親しみやすいだろうし、ドッジボールを競技として真剣にやられている方には心外な言い方かもしれないけれど、各自の本業の戦いを終えたアスリート達が集団になって右往左往するさまって平和的で微笑ましいと思うんだけどなあ。
もちろん、ハンドボール選手や水球選手も腕撫して参加しちゃうんであります。
日本ドッジボール協会とオリンピック関係者の皆さん、ひとつご検討ください。
結論。
①『パオパオチャンネル』のドッジボールコーナーは現存する日本ドッジボール協会とは関係ない。
②『ニドボッキ』について苦悩したり喜んでいたりするのは殆どが『ドッジボール部外者』である。
③A氏のご回答ぶりから想像するに、ドッジボール関係者は誠実そうである。
④まつしまみこさんは、僕のせいで『ニドボッキ』と検索した。
⑤今回のコンタクトを機会に『ニドボッキ』という言葉が、ドッジボール関係者の間で人口に膾炙する可能性がある。そうなるとちょっと照れる、いや、困る。
⑥頑張れ、日本ドッジボール協会!
===終わり===
『所ジョージさん。1』をしたためるに際し、いささか疑問に思ったことがあったので、今回はその続きです。
前回の内容の品のなさに辟易された方は、もう一回だけ我慢してください。(特に女性の方、ごめんなさい。)
それは、実は僕は『パオパオチャンネル』それ自身からその名称を知ったわけですが(つまりは略称『ニドボッキ』を知ると時を同じくしたわけです。)、
『日本ドッチボール協会というのはそもそも実在するのか?』
というささやかな疑問です。
だって、所ジョージ氏は声高に『にほん、ドッチボールきょうかい、略して、ニドボッキ、こうにん!』と毎回毎回叫ばれていたわけですから、もし、本当に日本ドッチボール協会というものが存在していたとして、
①公認していなかったら、これは毎日のようにテレビで叫ばれるのは迷惑だろう、と思われる。
②公認していたとしたら、毎回『ニドボッキ』と呼ばれることには抵抗はなかったのだろうか?
と思ったからなんです。
つまり『日本ドッチボール協会が存在した』として、①にしても②にしても協会側にとっては、諸手をあげて歓迎するようなタイトルコールではないはず、と僕は思ったんですね。
そこで、調べて見ました。
ありました。あるんです。
『日本ドッジボール協会』
『略称 J.D.B.A.』
『1991年2月設立』
『会長 馳浩』
そうなんです。『ドッチボール』ではなく、『ドッジボール』が正しいんですね。
これは僕の長年にわたる勘違いだったようです。この競技を英語で綴ると『dodge ball』となり『dodge』は『さっと逃げる、ひらりと身をかわす』という意味だそうです。だから『ドッチボール』ではなく『ドッジボール』なわけです。
まあ、これはどちらでもよろしい。勉強にはなりましたが『ドッチボール』でも『ドッジボール』でも略称が『ニドボッキ』になることには変わりはありませんから。
略称『J.D.B.A』、『ニドボッキ』から一転格好いいです。やはり、というか当たり前でしょうけど、略称『ニドボッキ』を名乗ってはいませんでした。
『設立1991年』・・・
あれ?
僕の調べたところによると『パオパオチャネル』が放送されていたのは、1987年から1989年です。
ということは、所ジョージさんの『日本ドッジボール協会、略称ニドボッキ、公認』というのはフィクションであった可能性が高いわけです。
これは、これで、僕は痛く感じ入ってしまいました。
なぜって、
①2013年現在実在する『日本ドッジボール協会』の存在を所ジョージ氏により、その結成前からすでに多くの人(?)が知っていた。
②ひょっとしたら、時系列から考えてみて所ジョージ氏の番組内での咆哮がなんらかの刺激になり『日本ドッジボール協会』が誕生した可能性がある。
③つまりは『ドッジボール』という競技そのものはともかく、『日本ドッジボール協会』という団体の民衆への啓蒙活動には『ニドボッキ』は大いに役立っていた、それも団体の誕生に先んじて。
ということになる、と思ったからです。これは、氏によるある種の予言といってもいいでしょう。
そして、『会長、馳浩』・・・。
そう、元プロレスラーにして、現自民党衆議院議員の馳浩さんです。
これは・・・どうなんだろう???
もし、僕が日本ドッジボール協会の関係者で、もし(もしですよ、もし)『ニドボッキ』というイメージを迷惑に思って払拭したい、と考えていたら、馳浩さんには会長を頼まないです。
いや、特にプロレスファンの方は誤解しないでほしいんですけど、僕がイデオロギー的に自民党が嫌いだとか(好きともいいませんけど。ここでは関係ないです、ということです。)、プロレスラーとしての馳浩さんを認めんとか(むしろ、大学を卒業し、一度国語の教師として教壇に立ちながら夢諦め難く教職を辞しプロレス入りされた時には、好意さえ持っておりました。)、というわけではないんです。
ただ『ニドボッキの払拭』を狙っているとしたらちょっと『馳浩』さんはないんじゃないかと。
だって、僕の、イメージでは、馳浩さんと言えば、その頃は(今でもそうだと思いますけど)珍しかった眼にも眩しい黄色いトランクスをはき、得意技は、相手の両足を腰にあたりに挟み込んで、ぶんぶん振り回す『人間風車』じゃないですか。
あの技って、なんだか、その、言いにくいですが『ニンゲン○ッキ』って感じがしませんか・・・?
黄色いトランクスのマッチョなイメージに『ニンゲン○ッキ』・・・・
これはどっちかというと、いやあきらかに『略称 J.D.B.A.』より『略称ニドボッキ』というイメージをより堅牢にする人事に近いと思うんだけどなあ。
いや、もし仮に僕が、日本ドッジボール協会の関係者なら、という飽くまで仮の話です。
・・・尚、これは、蛇足中の蛇足ですが(世の中広いですね『世間には自分と全く同じことを考えているひとが何人か必ずいる』と話には聞いたことがありますけど。)今回分を書くにあたり、こんなのどうせ一件も引っ掛からないだろうな、と気の向くままに、
『パオパオチャンネル ニドボッキ』
とさるサイトにインプットして検索してみたら、これがなんと82件(!!)もヒットしました。
このようなおよそ生産性が皆無と思われることに関心をもって、かつネット上でわざわざ情報を発信している人がこんなに大勢いることに、僕は『うわあ、82けんも!おお、ご同輩!お互い暇人ですなあ!』と思わずにたにたすると同時に、なんといいましょうか、ともすれば苛烈とも言われるニッポン現代社会も斯様な余分なのりしろを(僕という人間も含めて)包含している、ということに少し安心感を覚えました。そういう社会の方が健全ですよね。
この82件の情報の当事者には是非僕のブログを読んでほしいな。
=== 終わり ===
だいたい気付かれてしまっていると思うんですけど、このブログは、結果的に筆者がかなり独善的に書き飛ばしている、という性質のものが多いです。
ただ、そういう僕でも、少ないながら気を遣っていることが、実はいくつかあります。
そのうちのひとつをここで白状しちゃうと、あまりにも有意義でない内容で、最悪の場合ブログ自体がそう捕らえるのは已む無しとしても『筆者の人間性そのものが下劣だ』と思われやしまいか、という心配です。
今回の内容も、いや今回は特に、うまく筆者の人間性に無用な疑念を抱かれないように書き切ることができるのか、ちょっと自信がないです。
でも、そういう僕の不安に反して筆がどうしても進んでしまうので、書くに至りました。
最近はあまり聞かないような気がしますが、僕が子供の頃は、よく、
『思い出し笑いをする人はスケベなひとだ。』
と言われました。
これは、
『思い出し笑いをする。』
↓
『客観的状況と全然違うことを頭の中で考えている。』
↓
『妄想癖がある。』
↓
『スケベである。』
と演繹されたのでは、と推測されます。
ところで、僕はどうかというと、これがまあ非常に頻繁に思い出し笑いをします。自分でも『お、いかん、いかん、ついにたにたしてしまったな。スケベなひとと思われちゃうぞ。』と自覚することが多々あります。
そればかりか、実家にいた頃などは、母親から、
「あんた、なに、さっきからにやにやしてるの?」
と指摘されて初めて自分が思い出し笑いをしていることに気付いたりしていたので、自覚だけで『十分に多い』のに、自覚しないものを含めるとかなり頻繁に思い出し笑いをしている、ということになります。
これはいかんなあ、でも『箸が転んでもなんとなやら』じゃないけれど、例えば駅のホームで電車待ちをしている列の中に思い出し笑いをしている社会人、なんてそう見ないから、きっと若さゆえであって大人になった落ち着くんだろ、と安易に高をくくって、この癖は放置しておりました。
ところが、驚いたことに大人になっても全然この癖が治りません。はっと気がつくと、それこそところ構わず駅のホームなんかで思い出し笑いをしていることがしょっちゅうあります。もちろん、自覚なき思い出し笑いも相当数していると思われます。なんだ、大人になっても改善されていないじゃないか、とあるべき姿との乖離にこれまたひとりで口惜しがったりしているんですけど、最近さらにあることに気が付き仰天してしまいました。
そのこととは、僕が『思い出し笑いをいまだに頻繁にしている』だけではなく、
『思い出し笑いの対象が進歩していない。』
ということなんです。
まさに、十年一日の如く同じことでにやにやとしている自分に驚かされています。
『パオパオチャンネル』というテレビ番組がありました。
以前のこと、それも相当前のことです(調べてみたら1987年から1989年にかけて放送されていたようです。)。この番組は夕方に放送されていた、いわゆる『バラエティ番組』という範疇のものだったと思います。『思います』というのは、実のところ僕はその番組をとりわけ熱心に見ていたわけではないからです。あまり番組内容の詳細も覚えていません。たまに暇つぶしに見ていた程度だったと思います。
その番組に、あるコーナーがありました。僕の頭にわずかに残っている番組内容です。それは出演者だか、参加視聴者だか、が『ドッチボールをする』というコーナーで、皆さん真剣にドッチボールをしていたと思います(ひどいことにそれすら、詳細は記憶にありません。)。
それがどうした?と思われるでしょう。
問題は(問題なのかな?)は、そのコーナーが始まる際に、毎回この番組の司会者である所ジョージさん(だったと思います。)がするタイトルコールにありました。
なんのことはない『今からドッチボールコーナーが始まりますよ!』という趣旨のコールなんですけど、その際、しかも僕の記憶によると毎回、-毎回です。-、所ジョージさんがこう叫ぶんです。
「にほん、ドッチボールきょうかい、りゃくして、ニドボッキ、こうにんっ!パオパオチャンネルうう、ドッチボールう、たいかい~~~!」
僕は、当時この『略称』を始めて聞いたとき弾かれたように呵呵大笑してしまいました。
「うわはははは!『略してニドボッキ』!、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、がははは!』
番組の中では、なぜかこの略称には特に誰も笑わず触れず、という感じで、すんなりと『怪しげなプレイ』なんぞではもちろんなく『真剣にドッチボールをプレイする』コーナーへと入っていくんです。
それにもめげずに、毎回所ジョージ氏は必ずこのコーナーのタイトルコールで、『ニドボッキ、こうにんっ!』と咆哮されておりました。
僕は僕で、この略称に心を鷲摑みに摑まれてしまい、毎回毎回ひっくりかえって大爆笑しておりました。
正確なことを言えば、略しても『ニドボキ』あるいは『ニドボーキ』になるはずなのに、そこを強引に独自の解釈で『ニドボッキ!』と言い切ってしまう、氏のニドボッキな、もとい、イッポンギな男気にも痛く感じ入ってしまいました。
さて、先日のことです・・・。
電車の中で、ボーっとしていたら、あれ?とふと自分が『思い出し笑い発作』に襲われていることに気付き、慌てて表情を整えました。そのとき、はて俺はなんで今思い出し笑いをしていたんだ?と、珍しくいつもより冷静に自問自答してみて愕然としました。
その時、僕はなんと頭の中で、
「にほん、ドッチボールきょうかい!りゃくして、ニドボッキ、こうにんっ!パオパオチャンネルうう、ドッチボールう、たいかい~~~!」
とハイテンションで叫んでたのです。
ええ、俺って、なになに?どうなってるの?いま、2013年だから、ええ?少なくとも24年間はニドボッキで笑い続けてるってこと???十年一日どころではないですぞ?
にじゅうよねんかんもニドボッキ・・??
あり得ん!
僕は、自分という人間の内容の無さに、そうだなあ、つまりなんと申しましょうか、自分はこの24年間で、就職したり、病気したり、ビール飲んだり、残業したり、社内恋愛したり、予算を作ったり、失敬したり、もんじゃ焼き食べたり、失恋したり、テキーラ飲んだり、結婚したり、決算を狂わしたり、失禁したり、風邪ひきましたって嘘をついて会社を休んだり、子供ができたり、いろいろなプレイをしたり(いや、その、ラグビーとか、キャッチボールとか、です。)、とにかく多種のことをして多様に頭と心を働かせてきたのに、それらことどもは全て『ニドボッキ』には適わなかったのだ!!、『ニドボッキ』の前に俺の24年間の脳内活動は哀れ一敗地に塗れたのだ!!という思いに、しばし唖然悄然としてしまいました。
・・・・全くくだらない男です。
でも、やっぱり、『ニドボッキ』にはにやにやしちゃうよなあ。『つまるところ氏は、いかなる状況をもって斯様な言葉と定義せんとするものなのであろうか?』なあんて、自分なりに深く考察してみちゃったりしてね。
尚、僕が言われているように『スケベなひと』かと問えば、どっちかというとそっちは淡白で年齢に比し旺盛さにやや欠けて残念である、という感じのほうなので当たってはいないんじゃないかなあ?と思っています。
いや『自己保身のためのポーズ』じゃなくて・・・真剣に、そう思います。
=== 終わり ===
久しぶりに、『普段法螺など全く言いそうもない身近な人間が真剣に主張する、ありえない話』略して、『みぢかえない話』、です。
新入社員の頃の話です。
青ちゃんは大阪生まれの大阪育ち、で会社の同じ部門の同期です。仕事もよくできますが、大阪人らしく、とても愉快な男です。
しかも、頭が良いです。
僕が、青ちゃんは頭が良いなあ、と思った理由は、入社当時、僕ら新入社員全員が東京本社に集められて研修を受けておるときに『世間一般の関西人以外の人が抱いているステレオタイプの大阪人像を逆手にとる』ことで巧妙にみんなの笑いをとっていたのを見たからです。
『世間一般の関西人以外の人が抱いているステレオタイプの大阪人像を逆手にとる』ということは具体的にどういうことかというと、これは実際に青ちゃんが、
「こないだの休みにな、新宿行ってん、ほんでな・・・」
と『実際にやったこと』として話してくれたんですけど、同期のこれまた大阪人とふたりで新宿の大きな有名百貨店に行き、
「店員のお姉ちゃん相手に、値切りたおしたった。」
んだそうです。
よくよく聞くと、真剣に買う気はなかったようで、単に店員さんをからかって受けをとって喜んでいた、だけのようです。
「しかもな、値切れません、ゆう相手に、とどめにな、『ほな、ええわ、あんたが、社員割引でこうたらなんぼになるんや、俺らはそれよりちょっと高めにあんたから買うがな。それでも定価より安いやろ?』て真剣にいうたってん。」
「そしたらどうだった?」
「いや、そらもう、姉ちゃん、口を抑えて爆笑やで。あはは。」
青ちゃんが大阪の百貨店でも、そうですね、例えば梅田の阪急百貨店でもこれと同じことをしているのか、というとそんなことは、まずないわけです。
これは、つまり『関西人は金銭感覚に鋭くて、どこでもなんでも値切る』というステレオタイプな印象を逆手にとってあえてそういう関西人を『演じた』わけです。
なかなか頭がいいです。
そんな、青ちゃんが、研修中にある日いつものように冗談を言いました。
「俺な、大阪におる、連れにな、言うたってん。」
「なにを?」
「『東京っちゅうのはさすがやで』いうてな、『俺らの建物の最上階からな、あの建物が見えてな・・』」
そんな会社はゴマンとあると思いますが、僕らの会社の東京本社も一応、通りとお堀を隔てて東京都千代田区のかしこき場所に面しています。僕らは入社してすぐに、そこで新人研修を受けてから、東京本社を含め、いろんなところに配属されるわけです(蛇足ながら、僕も研修後、そのかしこき場所に面している東京本社とは違う場所に配属になりました。)。
「うん。」
「それでな、『俺がたまたま最上階から、そこを見てたら、天皇が散歩してたんや。それで、俺が試しに手を振ってみたら、天皇が俺にな手を振り返してきたんや!東京はやっぱ、ちゃうやろ?』ってゆうたってん。」
「がははは、そんなわけねえだろ!」
「がはは、そうやねん、、そんなわけないわな!」
かしこきところは広大で、実際にはどこにかしこきお方がいるのか、さえさすがに僕らの東京本社の最上階からも見えないし、だいたい、そんなに簡単にかしこきお方がうろうろされているのが一般人に見えちゃうんじゃ、これは治安上の、しかも国家的レベルでの問題である、というもんです。
でも、冗談としてはなかなか秀逸です。
僕らはひとしきり、笑いました。
ところが、青ちゃんの話はそれで終わらなかったのです。
「あはは、そうやろ?おかしいやろ?そんなん冗談に決まってるやんか。」
「あはは、うん、そうだよな。」
「ところがやな、その連れがやな、」
と、青ちゃん、急に真剣な顔になり、
「うん?」
「そいつがやな、ごっつい興奮して『ほんまか!?天皇が手え振りよったんか!さすがに東京はちゃうなあ!』言うて、まじで信じてしもうたんや!」
これは、ありえません!
「がはは、青ちゃん、そこはうそだろ~~、うそつけ!」
「あほ、ほんまやて、俺も、うわ!?こいつ俺の冗談信用して本気にしよった、どないしょ、っておもたんや。」
「ぜってえ、うそ!そんなの信じる奴なんかいるわけないだろ。芸能人じゃあるまいし、てんのーだぞ、天皇!」
とみんなして、笑いながらも、法螺ふくんじゃねえよ、と否定しましたが、青ちゃんはまだ真剣に、主張します。
「いやいや、ほんまやて、大阪の人間の中にはそういう奴が、たまああに、おるんや、て!そいつはほんまに信じよったんや!」
これは、『生粋の関西人は東京のことを全然知らなくて、ある種憧憬を抱いているらしい』というステレオタイプなイメージを巧妙に利用した青ちゃんの法螺にきまってます。
しかし、ステレオタイプの演じ方が行き過ぎたために、冗談転じて、『みぢかえない話』になってしまったわけです。
でも、ほんとうに、かしこき方が、気軽にあのかしこき敷地内をうろうろしていても意外に誰も気付かないかもしれないです。
『かしこきところ御用達』の寝巻きのまんま、朝からお堀の鯉に『ほれ、ほれ』って、餌なんか投げてたりしてね。
青ちゃんは、今では、要職にあり、バリバリと仕事をしておられます。今度機会があったら、『天皇に手を振ったら、手を振り返してきた話を信じた友人がいる』話の真相を白状させてみたいと思います。青ちゃんの今の肩書きが例え部長補佐であろうと、この話は、どう考えても法螺だと思うので。
===終わり====
つい先日、図らずも『普段何気なく起こっていることの実情をつぶさに知らされること』を経験しました。
その日、僕は、朝、あらかじめ予約していた病院に行ってから出社することになっていたので、いつもの通勤時間より少し遅い時間の上り電車に乗りました。その電車は比較的乗降客の多い、JRの主要な線で、通勤ラッシュの時間をすでに過ぎているとはいえ、座席はほぼ埋まっていて、各車両には立っている乗客が数人ちらほらといる、という状況でした。
僕は、ほどなくしなければならないJRから地下鉄への乗り換えの利便性のために、乗車してすぐにその電車の一番後ろを目指して、車両を移動していました。
何両目かの車両に来たときのことです。
「ん??」
車両の真ん中あたり、進行方向に向かって左側の座席に、仰向けに寝ている、いや、倒れてるかな、女性が僕の視界に入りました。
僕は、もとより、その車両を通過して最後尾の車両に行く予定だったので、おのずと、その女性を見ながら、彼女にだんだん近づいて行き、ついには、その横を通過しました。
その方は、妙齢の女性で、白い服の上下という清潔な格好をしてました。
見ると、膝下以外の体の四分の三は、完全に座席に仰向けに投げ出されていて、両手はだらりとシートに置かれており、そうですね、なんだか『全然覇気の無い万歳をしている』みたいな格好でした。茶色く染められた長い髪は後頭部を中心に放射状に座席に散らばっています。
そして、何より、僕に、あれれ?、と思わせたのは、その眼です。彼女の眼は完全に閉じているかというとそうでもなく、では、開いているのかといえばそうでもなく、なんだかうつろに半眼を見開いて虚空を見つめています。
時間帯からして夜通し遊んでの朝帰りには遅すぎます。
その車両は他の車両と同じく、座席はほぼ埋まっていましたが、少なくとも僕が通っている間は、彼女に対して何かを働きかけている乗客は誰もいませんでした。
これは傍観者心理、って奴ですね。これだけの人がいるんだから自分じゃない誰かが何かするだろう、というアレです。もちろん、僕に至っては、
「俺はさ、見ての通り『この車両をたまたま通過する人』だもんね。だから、彼女と同じ車両に居合わせたあなたたちに比べて、より見てみぬふりをできる立場にあるんだよん。普通は、同じ車両にいる人の責任でげしょ。」
という空気を体全体で精一杯放ちながら、歩く速度を緩める、などという下手は打たずに、全身これ傍観者心理という状態でそのままその車両を通過すると、一気に最後尾の車両にまで辿り着きました。
でも、ちょっと気にはなる、じゃないですか。
そういうときに限って、ふと最高尾車両の運転席を見ると、車掌さんが女性なんですよね、これが。
こういうのって、強面で、ぶすりとした男性の車掌さんなんかだと、まず言いつけたりしない、と思われるんですけど。女性というのは、それはやはり、野郎に比べたらソフトで優しいし、倒れているのが車掌さんと同性というのもケアしやすいだろうなああ、きっと・・・。
僕は、なんだか義務感を感じて、そうですね、大袈裟に言うと神様が境遇を用意して僕を試しているのかも、といった気分になり、少しばかり勇気を出して、それでも正直にいうと、あんまり、いや全く関わりたくないんだけどなあ、と思いつつも、運転席のガラスを、こんこんと叩き、愛想笑いなど浮かべつつ、車掌さんの気を惹きました。
すると、それに気がついた小柄でいかにも実直そうなその女性の車掌さんが、ドアを開けて、
「なにか?」
と尋ねてくれたので、僕は、ここからそう遠くない車両の、こっちから見ると右側に若い女性がシートに仰向けに横たわっていて、表情がおかしい、と説明しました。
すると、車掌さんの反応は僕の予想を遥かにこえて機敏なものでした。
次の駅で停車すると、車掌さんは、猛烈な勢いで、運転席を出て車内を走り出しました。僕も、言った手前、気になるので、しかし、のろのろと彼女の後を追い、くだんの座席の手前の車両から様子を見守りました。
この期に及んで、まだ僕は、あんまり関わりたくなんだけどなあ、などと勝手なことを思っていたので、無意識に『当事者エリアと推定される半径外にいること』によって、当該事件現場と距離を保っていた、と見受けられます。
我ながら、せこいです。
車掌さんは、猛烈なスピードで倒れている女性をみつけると、かがみこんでなにやら呼びかけています。と、外を見ると、一体いつ連絡したのか、駅の下から、男性の駅員さんがふたり上がってきて、ひとりはすでに車椅子を押しています。
今や、多くの乗客の耳目を集める一大事であります。
「やや、やはり、かなりの重症であったか・・・」
予想を超える事態に、僕は、やや緊張しました。と、同時に、通報してよかったな、と少しほっとしました。
ところが、車掌さんが、なにやら倒れている乗客とコミュニケーションを図ってしばらく、そう『しばらく』です、すぐに、ではないです、たつと、倒れていたはずの乗客がのっそりと置きあがり、面倒臭そうに座りなおすと、腕なんぞ組んで、また寝始めました・・・・。
そうなんです。この若い女性は『ただシートを独占して仰向けになり、家にいるようなテンションで寝て、電車という交通手段をエンジョイしていた』だけだっんですね。
彼女は『覇気の無い万歳をしていた』のではなく、その格好を強いて僕流に解釈すると、謂わば『空いている電車万歳!』をしておられた(聞いて見たわけはないので、実際の彼女の心持は知る術がありませんが。)わけです。
一方、これは全く瑕疵などない車掌さんは、それでも、
「大丈夫です、ただお休みされていただけのようです。ありがとうござました。」
とわざわざ僕にお礼まで言ってくれました。さすが世界に冠たる日本の輸送サービス業です。
駅員さんの持ってきた車椅子も幸か不幸か使用されずに、電車は、『万歳!』を中止しのろのろと座り直して寝始めた当該事件主要人物のひとりである彼女も乗せたまま、再び出発しました。
なんだ、はた迷惑な、寝ていただけなのか、しかし、若い女の子が朝から大胆だ、これかどこに行くんだろう、デートかな、デートに行く途中で座席に仰向けに寝てしまう、というのも凄いなあ。
と僕が思っていると、やにわに、女性車掌の声で車内アナウンスが聞こえて来ました。
「ええ、この電車、具合の悪いお客さまがおられたため・・・4分の遅れがでております。お急ぎのところ、たいへん、申し訳ありません。」
ええ!俺って、4分も電車を遅らせちゃったのか!なんか恐縮して、げっそりするぞ。なんで、俺が申し訳ない気持ちになるんだ?
普段何気なく、電車が数分遅れることによく遭遇して、舌打ちなんぞをしていた僕は、『ははん、なるほど、こうやって、電車って遅れるんだな』と深く得心致し、図らずも『普段何気なく起こっていることの実情』の当事者になり、そういう現象の起承転結をつぶさに知ること、となったのであります。
蛇足ながら、よく電車を止めてしまうと、膨大な損害賠償を請求される、という噂がありますが、今回の場合は電車を止めてしまった僕に対して、そういう類の請求は全くありませんでしたので、こちらのほうの真偽の程は定かではございません。
それから、こういう経験はあまり気分のいいものでもないし、僕としてはもう勘弁していただきたいので『シートを独占して髪を振り乱し白目をむいて、電車万歳!』をしたい、という方は、是非僕が頻繁に乗るJR東日本のオレンジ色の車両の線と、黄色い車両の線と、それから地下鉄の青い車両の線、以外の車両の座席で『万歳!』をされますように、お願い致します。
===終わり===
心理学の分野で『安心毛布』あるいは、『ブランケット症候群』と呼ばれる現象があります。
これは、人が物に執着していて、ときには、その物がないとパニックになるような状態を指し、別名『ライナスの毛布』とも言うそうです。
ライナスとは、漫画『ピーナッツ』(スヌーピーが出てくる漫画ですね。)の中の登場人物の中のひとり、ライナス・ヴァン・ヘルトのことです。『いつも毛布を引きずっている男の子』といわれればおわかりになる方もいるのではないでしょうか。(参照WIKIPEIDA)
最近、あることで『ああ、俺も年をとった!』と激しく痛感させられました。しかもそれが、予想していなかったことが原因だったので、衝撃はより大きかったです。
例えば、白髪が増えただの、体力が落ちただの、いろんな欲求の勢いがそがれている、だのは、それはそれで残念なことであるけれど『ある程度予期していた、年をとったことによる兆候や現象』です。
しかし、今回のは全く意外なことで、ああいうことになろうとは予期していませんでした。もっと正確にいうと、ぼんやりと、もっと先の話しだろう、あるいは俺はそうはならないだろうな、と思っていたので、今の僕がそういうことになっている、とは驚きでした。
ある日、僕が寝そべっていると、息子が僕の左側の傍らにやってきて、同じように寝そべりました。
父親にくっつくとは、まだ、子供です。
お互い寝そべりながら他愛のない会話をしていました。僕は、確か仰向けになって天井に視線を泳がせながら息子のおしゃべりに付き合っていたと記憶しています。
その時、話しながら、息子が僕の顔のすぐそばでなにやらもぞもぞしてました。僕は、彼の行動を全く不審にも思わず、特に疑問ももたず、依然仰向けのまま寝そべって息子の話し相手をしていました。
ふと、会話が一段落したとき、まだ僕の左顔近辺でもぞもぞしながら息子が言いました。
「ねえ、パパ。」
「うん?」
「あのさあ、」
「うん、どうした?」
「パパのさ、」
「うん。」
「ここにい、」
「うん?」
「毛がはえてるって、しってた?」
「え?」
僕は瞬間、息子が何を言ってるのかわかりませんでした。
「どこに?」
「ここだよ、ここ。しらなかったでしょ?」
と、息子は、僕のその『毛』をやや強く引っ張りました。最前から息子がおしゃべりをしながら僕の顔付近でもぞももぞしていたのは、その毛を触っていた、ということだったんです。
全然気が付きませんでした。
息子は、僕に気がつかせようと、その毛を強弱をつけて引っ張る、という動作を2,3度繰り返しました。
すると、どうでしょう、全く予期しなかった僕の体の一部分から、何やら刺激を受けておるぞ、という感覚が脳に送られてきました。
僕は、驚いて、
「え?本当か?」
と息子に尋ねると、息子は、
「うん、けっこう、まえからあるよ、ほら。」
と応えながら、また強弱をつけて引っ張りました。
「ちょっ、ちょっと!」、
言いながら僕は、刺激を受けた部分を自分で触って確かめてみました。
すると、どうでしょう、確かに、息子の言うように、なにやら一本だけではあるけれど、ひょろひょろとした、しかし、確かな太さの1センチ以上の長さのある毛が、僕の指先でもはっきりと確認されました。
「うわ、まじかよ!」
僕は、驚愕しました。
それは僕の左耳の『耳毛』だったのです。
正確にいうと生えていたのは耳たぶ側とか穴近辺ではなく、耳の穴のすぐ外の、顔側に小さく山型に突起した部分(『耳珠』、じじゅ、というそうです。以下そう呼びます。)のてっぺんから、縮れた、しかし、それなりの剛毛が、一本生えていたんです。
よく、電車の中なんかで耳から毛を生やしている年配の方をお見かけしますが、一本とはいえ、自分がそういう状態になっていたとは!
ああ、俺も年をとった!
いつのまにこんなことに!
しかし、息子は本人でも知らなかったことをいつから知っていたんだろう?
僕は、しばし愕然とした後、知らなかったこととはいえ『いままでこんなところに毛を、それも一本とはいえ、それなりの剛毛をしたためているのを世間様に晒して生きていた』という事実に、強烈な恥ずかしさを覚え、大逆上しました。
息子は、自分の指摘に対する父親の過剰な反応が予想外だったのか、一瞬ぽかんとしていましたが、すぐに、父親の言動を先周りすると、こう叫びました。
「あ、だめっ!パパぬかないで!」
え??
「なんでえっ!?」
「いいから、ぬかないでっ!」
「だって、恥ずかしいじゃないか!」
「でもぬかないで!」
「だから、なんでだ?」
続いて息子が言ったことは、これまた僕を驚かせるのには、十分に奇天烈でした。
「フジはね、パパのこの毛をさわっていると、なんていうかね、とってもあんしんするんだよ。おちつくんだよ。だからおねがい、ぬかないで!」
「え・・・安心するって・・・・」
・・・・。どうやら息子は、かなり前から彼の父親の耳珠にある『耳毛』を発見し、いつも、しかし密かに、その『耳毛』を触っていたようなんです。しかもそのことが習慣化して、僕の『耳毛』に触れること、は彼にとっては、精神状態を良好に維持することに大いに功績があったもの、と見受けられます。
これは、つまり『ライナスの毛布』と同じです。
『ライナスの毛布』、ならぬ『父の耳毛』です。
というわけで、思わぬことから、ああ俺も年をとったのだ、と感じさせられた、と共に、これまた偶然にも『ライナスの毛布』という心理学上の理論を実践で追実験する運び、となったのであります。
尚、僕の耳毛は、息子があまりに全身全霊を込めてお願いするので、その時は抜くのを暫時断念されました。
しかし、このブログを書くにあたって鏡をみながら耳珠を再確認したら、いつの間にやら抜けておりました。ただし、こういう部分の毛は、いったん抜けてもまた同様の毛が生えてくる、と推測されるので、-それが証拠に、もともと毛が生えていた部分には肉眼ではわからないものの、手で確かめると、髭剃りあとの毛根のように明らかに痕跡が感じられます。-、そのとき、息子の精神衛生面を優先して放置しておくか、己が世間体を優先して抜いてしまうべきか、ちょっと結論を出しあぐねています。
実に悩ましいです。
それにしても、変な子だなあ・・・。
===終わり===
巷間よく言われることのひとつに、
『男女は結婚して夫婦になってみて初めてわかることがある。』
という言葉があります。
僕のうちは国際結婚進行中なんですけど、その事実を知っている他人様から、
「おまえは一体、うちでは晩御飯には何料理を食しておるのか?」
というご質問を頻繁にいただきます。
そういうときの僕の返答は、
『食卓についてみないとわかんないです。』
で、あります。
つまり、原則『多国籍』です。
僕も、その種の質問を受けるたびに、改めて反芻してみるんですけど、さい君の国の料理のことも多々あるし、彼女は国籍はともかく人種的には中国系なので『南半球風中華料理』のこともあるし、さい君が日本にきてから覚えた一般的な日本料理のこともあるし、例えば、蕎麦とか、そうめんとか、カレーライスとか、ですね、日本のカレーはよその国では食べられないですから、そういう意味では日本料理の範疇にある、と僕は思います。実際、さい君の国にもカレーはありますけど、かなり料理方法も味も違いますから。もちろん、さい君の国のカレーが食卓に上ることもあります。あるいは、稀に、彼女が日本語学校の友人からもらってきた第三国の料理がおかずになることもあります。
思うに、僕が、その種の質問をうけるたびに、言われて見ると何かな?と自問する、というところを見ると、これは、『外国人が奥さんになってくれたけど、普段食生活では特にストレスは感じていない』ということの裏返しだと思います。だって、もし、普段そのことで不満を感じていれば、『おまえ家では何食ってるんだ?』といわれたら、『聞いてくださいよ、それがですね!・・・』という反応になるからだと思うからです。質問を受けて、そういえば俺って何を食べているんだろう?とわざわざ考える、ということはありがたいことに、食生活においては支障なく毎日を過ごしていることの証左でしょう。これは、僕が『わりと(わりとです、わりと。)何でも食べる人である』ということと、さい君の料理が僕の口にあっている、ということが、主な理由だと思われます。
ただし、そこは、やはり、国際結婚なので『それなりの事情』はあったし、今でもあります。
例えば、さい君が日本料理を覚える過程では、やっぱり『失敗作』もあったし、-初めてさい君が肉じゃがを作って食卓に持ってきたときには、それこそカレーに似た、違う料理かと思いました。だって、お椀から溢れんばかりの『スープ』の中にじゃがいもだの、にんじんだのが入っていたからです。-、一方さい君の国の料理でもまれに僕の口に合わないわものもありました。
そういう試行錯誤を経て、混血児の息子を含めて、現在の円満な我が家の食卓があるわけです。でも、僕は、想像でしか言えないけれど、そういう『一緒に住んでみてからの、お互いの食文化の摺り合わせ』というのは、たとえ日本文化共有者同士の結婚でも大なり小なりあるのではないでしょうか?
ただし、我が家の場合、僕らにとっては全然問題はないけれど、これは普通の日本人同士の家庭ではまずないだろうな、もし、あっても人によってはちょっと諍いの元になったりするんじゃないかしらん?という献立が稀にあります。
そのうちのひとつの晩御飯のメニューが、
・ごはん。
・おかず
『ケンタッキーフライドチキン』。
・以上。
というものです。
我が家においては、この献立は問題がないので、そういうときがあっても、僕も息子も、
「いっただきゃあーす。」
といつものように食していますが、こういうのはちょっと普通の日本の家庭ではみられないんじゃないでしょうか?
もちろん、かくいう僕も結婚するまでは、こういう晩御飯に遭遇したことは一度もありません。だから、僕にとっても最初から、全く抵抗がなかったわけではありません。
普通の日本の家庭にとっては、これはある種の暴挙ともいえるでしょう。こんなメニューが何の前ぶれもなく供されたらご主人やお子さんから、『手抜きだ』とか『ケンタッキーフライドチキンで、しろめしを食えっていうのかよ!』なあんて文句が噴出して、ひどいときは家庭内争議の原因になるではないかしらん?
なんで斯様なある種面妖とも言える献立が、我が家ではすんなり許容されるのか、というと、これは、さい君のためにやや弁護が必要になります。
恥かしながら僕は、ある時期まで日本人は世界で一番、米好きな民族だと思っていました。
しかし、世界は広いです。さい君の国に駐在した僕は、その考えを改めざるを得ませんでした。
実は、彼女の国のひとたちには、『ものすごく米に執着する国民性』があり、その証拠に少なくとも僕が住んでいたときには、いわゆるファストフードのチェーン店にも『ライス』というメニューがあったんです。そうしないと客が確保できないんですね。マクドナルドにも、ウエンディ-ズにも、ケンタッキーフライドチキンにも、『白い飯』があるんです。
本当です。
ちなみに、僕は、その事実を知った当時、心底驚いて、
「日本人もいい加減米好きだけど、日本のケンタッキーではご飯は売ってないよ。」
と現地の知人に話したら、逆に、日本を含めての海外渡航経験豊富なその人に(さい君ではないです)、
「ええっ?本当!?」
と驚愕されてしまいました。
だから、さい君にとっては、『ケンタッキーフライドチキンをおかずに、しろめしを食べる』というのは当たり前のことなんです。
まあ、言ってみれば『晩御飯のおかずに、鳥のから揚げをお惣菜として調達した先が、今日はケンタッキーフライドチキンだった。』というくらいの感触です。(真剣に問い詰めてみたことはないけど、たぶん、あってます。)
つまり、唐突に僕のさい君が生きることに自暴自棄になった、とか、ひどい夫婦喧嘩の挙句の報復に出て、ケンタッキーフライドチキンにしろめしで、晩御飯をすませた、とかいうことではないんですね。
それなりの、『文化的背景』があるわけです。
尚、この、
・ごはん。
・おかず
『ケンタッキーフライドチキン』。
・以上。
という献立が、我が家の食卓にのぼる危険性、もとい、可能性、が高いのは、毎月28日の日です。なぜなら、日本のケンタッキーフライドチキンでは、毎月28日を『にわとりの日』としていて、なんとかパックを安売りしているからです(ケンタッキーフライドチキンの関係者の方へ、いい加減な言い方でごめんなさい。)。
蛇足ながら(というのはちょっと失礼ですが)、サーティワンアイスクリームというアイスクリームのチェーン店では、毎月31日を『サーティワンの日』として、これも詳細は知りませんが(Baskin Robbins関係者の方、これまた、すみません。)、特典があります。
日本人の旦那は、ケンタッキーフライドチキンの『にわとりの日』も、アイスクリームの『サーティワンの日』も、さい君と結婚するまで、全く知りませんでした。
自称『けち』、その正体たるや実は『けち』、な外国人妻が、日本に住み始めて開拓し、日本人の夫に提供してくれた情報なんであります。
この28日にケンタッキーフライドチキンでなんたらが安い(ますます言い方がぞんざいになり、失敬します。)、31日はサーティワンがお得だ、という事実は、僕にとっては、
『男女は結婚して夫婦になってみて初めてわかることがある。』
ということの一例でありました。
ちょっと『一般的な例』ではないかもしれませんけど・・。
===終わり===
ちょっと堅いことを言いますが、『何ものにも洗脳されていない真っ白な人』というのはあんまり存在しないんじゃないか、と僕は思います。
もちろん、かくいう僕もその例には漏れません。
例えば、『議会制民主主義は良い制度である。』ということには、僕は比較的に自ら進んでずっぽりと洗脳されているし、それから、そうですね、『会社では利益を稼ぐために働かなければならない。』ということにも、-これにはどちらかというと渋々と、ですが-、洗脳されてます(その割りには全然といってもいいくらい結果を伴っていないのは、洗脳する側、この場合は僕の属する『会社という組織』ですね、にとっては気の毒な結果になっちゃってますけど。)。
でも、そこは僕なりに、『俺は議会制民主主義も営利追求も絶対的に正しいものではない、とわかっていて、敢えて洗脳されてあげてるんだよ~~~ん、だ。』という(だからと言って、僕は実はマルキシズム信奉者なのだ、とか、アナーキー万歳!とか、いうわけでもないです。どちらかというと『ノンポリ』ですね。)自覚と矜持は担保しつつ、洗脳されているつもりです。
ところで、僕の息子は僕の意図に反して全然野球に興味がありません。それなりに努力はしてみたんですけど、少年野球に連れていけば一日でやめちゃうし、テレビで僕が毎日のように阪神タイガースの試合を見ているのに一向に野球好き方向に洗脳されてくれる気配がありません。
今では、僕も『男同士、二人でテレビで野球観戦なんかしたら楽しいだろうな。』という父親らしい願望を諦めて、ひとりで熱心に野球観戦をしています。そういうとき、息子はというと、まるで興味がないからテレビに背中を向けてゲームをしたり、おもちゃをいじったりして、ひとり遊びをしています。
先日、いつものように僕が阪神戦を(甲子園でのホームゲームだっと思います。)応援していたら、これもいつものようにあさっての方向を向いてひとり遊びをしていた息子が、突然こちらを見て、黙ってテレビを凝視したと思ったら、おもむろに僕のほうを向いて聞きました。
「ねえ、パパ、なんで『見いつけた!』って言ってるの?」
「は?」
唐突であるうえに、野球とは全然関係が無い問い、と思われたので、僕はきょとんとしてしまいました。
「なんだ、そら?」
「ほら、パパ、よくきいてよ。おうえんしてるひとたちが、『♪お~~、みいいいつけたああ!』っていってるじゃない?」
画面では、ちょうど阪神タイガースの西岡選手が打席に立っていました。
「いや、あのな、違うよ。この選手はさ、にしおかっていう名前だから、『♪お~~、にしおかっ!』って言ってるんだよ。」
「ちがうよ、パパ、ようくきいてよ、『♪お~~、みい~~つけたああっつ!』っていってるから。」
僕は、そんなはずはないとは知っていながらも、へえ、聞き様によっては、そういうふうに聞こえるのかな?という単純な疑問が湧いてきたので、しばし黙って画面に見入りました。息子も自分の主張を証明すべく、テレビに正対して野球中継に身を乗り出しています。
偶然ながら、構図だけは、『男同士、二人でテレビで野球観戦なんかしたら楽しいだろうな。』という僕の希望が一瞬成就したわけです。
短い沈黙の後、息子が言いました。
「ほらね、『♪おおお、みいつけたあああ』ていってるじゃん。」
「言ってないよ。」
「それでさ、そのあと、『おおお、むうかあしいいっ!』っていってるよ。」
??むうかしいい????
「ちがうよ、フジ、この選手はさ『にしおかつよし』っていう名前なの!だから、阪神ファンの人たちが、『♪おおお、にいしおかあ、おおおお、つうよおおしいい!』って叫んでるんだよ。」
「ちがうって、『おおお、みいつけたああ、おおお、むううかあしい』だよ。」
なんだそら。そんなわけないです。
でも息子の耳には『おお、にしおかあ、おおお、つうよおしいい』が、どうしても『おおお、みいつうけたあ、おおお、むううかあしいい』に聞こえるらしく、主張を変えません。
これ以上こんなことを議論するのもせんないので、その場は放っておいて僕は再び阪神の応援に戻り、息子も、テレビに背を向けてひとり遊びを再開しだしました。
ところが、それ以来いつもの『野球に対してまるで無関心』というスタンスは変更しないのに、西岡選手が打席に立つ時だけは特別に、息子は態勢を変え、耳をそばだて、
「あ!『おおお、みいつけあああ、おおお、むううかしいい!』だ!」
と毎回のように指摘するようになりました。
僕は、最初のうちこそ、
「だ、か、ら、違うって。『おおお、にしおかあ、おおお、つうよおおしいい!』なんだって。」
と逐一反論していましたが、そのうち馬鹿馬鹿しくなって、息子が西岡選手の打席のたびに律儀に『おお、みいつたあ、おお、むううかああしいい!』と言い張るのを、だんだんと適当に受け流すようにするようになりました。
だいたい、『見いつけた、昔!』って日本語としてもなんだか意味が通じてないじゃないですか?
何だって野球場に来ている阪神ファンが、みんなで声を揃えて、そんな、考古学者のなり損ないみたようなことを連呼しきゃいけないんでしょうか?
あり得ません。全く阿呆らしい・・・。
そんなある日の野球中継で、『走者を置いてここという場面』で左打席に立っていた西岡選手が(蛇足ながら、西岡選手はスイッチヒッターです。)、ライトへ突き刺さるようなラインドライブのホームランを放つ場面に遭遇しました。
「うおおっしっ!やった!やったあっ!」
「パパ、どうしたの?」
あまりの父親の興奮ぶりに驚いたか、息子が尋ねました。
「ホームランだ、ホームラン、阪神、ぎゃくてんっっ!」
「へえ、よかったねえ!」
「うん!」
「だれがうったの?」
それに対しての自分の返答を、僕は頭の中で反芻して、すぐに愕然としました。
すなわち、父親は条件反射的にこう答えたのです。
「うん!むかしだ!」
・・・・え?
どうやら、僕の脳は律儀に主張する息子のコールに嵌ってしまい、いつのまにやら西岡選手が打席に立っているときに、『お、西岡、打てよ、それ、♪おおおお、みいつけたあ、おおお、むうかしいい!』と、ああ阿呆らしい、と思っていたはずの言葉を唱和すること、を繰り返してしまっていたようなんです。
これを『完璧な洗脳』と言わずして何と言いましょうか!
自覚だの、矜持だの、のかけらもないです!
『議会制民主主義』と『営利追求』に加えて『おお、見いつけた!おお、昔!』と、僕が洗脳されていること、がまたひとつ増えてしまいました。
いやいや、あな恐ろしや。
暇と、好奇心と、洗脳されてもいいという覚悟、のある人は、今度、是非阪神戦、それもできれば甲子園からの阪神戦中継での、西岡選手が打席に立ったときの応援に耳を澄ましてみてください。
もちろん、本当に『おおお、みいつけたあ、おおお、むうかあしい!』と聞こえてしまって、そのリフレインが頭から離れなくなったりしても、そこは自己責任というお心積もりで観戦に臨まれたい、とあらかじめ申し上げておきます。
悪しからず。
=== 終わり ===
人には誰も大なり小なり持って生まれた好奇心、というものがあって『何かを知りたい』という欲求があるけれど、それと同じくらい、それぞれ、
『特に知りたくはない情報』
というのがあります。
例えば、僕は賭け事をしないので(特に理由はないです。単純にまるで興味が湧かないからです。)、競馬の馬の健康状態の情報だの、急上昇している新興の会社の東京証券取引所での株価だの、には全然興味を示さないけれど、野球が好きなので『野球選手の打率』、そうだな、最近で言えば、ニューヨーク・ヤンキースのイチロー選手にはまだまだ頑張って欲しい、という気持ちがとても強いので、暇にまかせて、仕事中も毎日イチロー選手の打率をチェックしては一喜一憂しています。
さらに言うと、同じ『野球選手の打率』という括りでも、僕は、阪神ファンなので、イチロー選手の打率と同じく、阪神タイガースの鳥谷選手の打率は、
「う~ん、出塁率が高いとはいえ、三番打者の鳥谷の打率が2割5分台というのは、シーズン後半戦にむけて戦力的にどうなんだろう。心配だ。」
といった感じでとても気になるけれど、同じ『野球選手の打率』でも、ええと、例えば巨人の長野選選手の打率には全然興味がありません(これも他意はありません。単に巨人ファンじゃないから、というだけです。)。
これは、つまり、
『対象が違うと、その情報の属性が同じでも興味の度合いが全く異なる。』
という現象例ですね。
ところで、話は変わりますが、僕のさい君は、日本語の読み書きは殆どできないから、新聞には一瞥もくれませんが、そこはやはり女性、持って生まれて好奇心のせいか、新聞の折込広告はいやに熱心にチェックしています。そして、
「ああ!ひどい!先週私が1,290円で買ったTシャツが、セールで790円になってる!500円損した!」
とか、大声で騒いだり、
「お、サブウエイのポテトのクーポン券、切っておかなきゃ。」
なんて、まめにクーポン券を切り取ったりしています。
このあいだ、そういうさい君が、手に2、3枚のちらしを握りしめて、僕のそばに来ました。外人であるさい君が僕に助けを求める、いや、命令する、かな、という我が家ではよくある光景です。
「ちょっと、ケイタ、これ、3,000円だけですむってこと?」
いつもの『通訳の指示』です。
「あ~どれどれ・・・・違うよ、ただじゃなくて、これを持っていったら、この遊園地に入る『入場料』を5,000円から3,000円にしてくれるけど、中でのアトラクションの費用は別にかかるってことだな、うん。」
「なんだ、そう。じゃ、いらないや。」
さい君は、彼女なりに納得すると、あらかじめ用意していた二枚目のちらしを取り出しました。
「これは、ジョナサンのドリンクバーがひとり150円になるっていうクーポンじゃない?」
「うん?・・・どれどれ・・・ああ、これはさ、そういうことなんだけど、条件付きでさ、平日に限る、ということと、他に何か一品オーダーしないと使えないんだって。つまり、ドリンクバーだけでは、このクーポンは使えないんである。」
「ふーん、そうか、でも切り取っておこう・・・、あと、これなんだけど・・」
と、さい君は、この日三枚目のちらしをおもむろに僕の眼前に突き出しました。
「これさ、買いたいんだけど、やり方がわかんないから、変わりにケイタが手続きして。」
見ると、本日三枚目のちらしは通信販売の広告です。なるほど、さい君は日本語の読み書きができないので、パソコンを使って通信販売のものを購入する、或いは葉書で申し込む、ということができない、あるいはできたとしても何か間違いを起こすんじゃないか、ということで、これもまた、我が家にはよくあることのひとつです。
ただ、この日、僕の前に突きつけられたそのちらしの大写しにされた写真は、
『フルカップブラジャー』
でした。
「・・・・・ブラジャー・・・。」
まあ、このブログでも以前書いたように(2010年6月5日『340ミリ。』 http://heiseiasahi.blog129.fc2.com/blog-entry-13.html ご参照ください。)うちのさい君はなんでも僕に買わせる人なので、ブラジャーくらい買わせてもおかしくはないんだけど、でも、やっぱり僕としては今回もそうですけど、その都度、『・・・おや?』って思うんですよね。
そういう僕の気持ちを知ってか知らずか、さい君は、
「ええと、この『8736-158』っていうのが『商品番号』で、色はこれね、色番号25番の『ハニーベージュ』、それから・・」
と写真を指差しながら、ずんずん話を進めます。
「サイズは、これ、『57番』ね。」
え・・・『57』って何だ??
と僕が戸惑いながら、さい君の指さした先をみると、そこには男性の下着の広告には見慣れないマトリックスのようなものがあって、縦軸に『カップサイズ』、横軸に『アンダーバストサイズ』が示されていました。
それで、彼女バストのサイズの縦軸と横軸によって求められる『サイズコード』が『57』だったわけです。
「・・・・・・・」
僕は、期せずして、かくかくしかじか年連れ添った自分のさい君の現在のバストの『カップ』と『アンダーバスト』を知らされてしまったわけです。
これは、残念なことに、というか、何と言いましょうか、僕にとっては、
『特に知りたくはない情報』
だったので、ちょっと、なんだかなあ、という気分になってしまいました。
しかし、さい君は委細かわまず、続けます。
「個数は一個。できるだけ早くね。」
そして、さらに彼女は参考情報として重ねてこう言い放ちました。
「出来るだけ早くね、いま、わたしね、ブラジャー2つしか持ってないから。」
「・・・え?」
よくわかんないんですけど、ブラジャーって『下着」だから毎日洗って使うもんだと思うんです。それを自分の伴侶が、
『2つしか持ってない』
って知らされた夫って・・・。
僕は『女性のブラジャーの在庫数方面』には、まるで明るくないですけど、横浜DeNAベイスターズの先発投手ローテーションじゃあるまいし(ベイスターズファンの方、ごめんなさい。)、2枚というのは、ちょっと心許ないのじゃないかしらん???
これもまた、僕にとっては、『特に知りたくはない情報』でした。
世間一般の妻帯者の皆さんは、どうなんでしょう、御自分の伴侶の、
『現在の』
『ブラジャーの詳細なサイズ、及び在庫数』
というのは、知りたい情報ですか?
ええと繰り返しまずけど、僕の場合は、間違いなく『特に知りたくはない情報』です。『今日のレースの馬場の状況』と同じ範疇です。
なんだか色気もなにもあったもんではない、じゃないですか。
けれども、この事件を、さらに一歩踏み込んで検証してみると、例えば(『例えば』です、飽くまで。考察のために一歩踏み込んでみるわけです。)、
『僕が若かりし頃、例えば10年前に、』
『例えば、雛形あきこさんの、』(例えば、です。)
『ブラジャーの詳細なサイズと在庫数』
を入手できていた、としたら・・・・。
う~~~ん、う~~~むむむ、むむむ。
これはちょっと『むらむら』、いやもとい、『わくわく』したであろう、と推測されます。
『対象が違うとその情報の属性が同じでも興味度合いが全く異なる』という好例といえるでしょう。
尚、くだんの『商品番号8736-158・色ハニーベージュ・サイズコード57』のブラジャーは僕の購入手続きによって遅滞なく正確に届き、さい君のブラジャーの在庫数は、三つとなりました。
ローテーションに多少は厚みが出来たようで、慶賀の至りであります。
そして同封されていた『商品名 フルカップブラジャー』と印字された請求書は現在僕の財布の中におり、これまたさい君の命により、僕によって近日中に郵便局での支払い手続きが行われるのを待っておるところであります。
===終わり===
僕の息子は、一応子供部屋をあてがわれているし、我が家にとっては安からぬ勉強机まで買ってもらっているくせに、いつもリビングで宿題をしています。普通は、リビングなんて邪魔が多くてお勉強には集中できないと思うんです。でも彼はそれでなくても元来が落ち着きのない性格なのに、周りに人がいないところでは勉強ができないとみえて、いつも食卓でノートを広げています。
じゃあ、そういう環境下ならすごく集中力を発揮するのか、というと、これが全然で、しょっちゅう自分から周りの人間に話しかけたり、机から離れてうろうろしたり、しています。
僕は、何度も、
「宿題をするときは、自分の部屋の自分の机でやれ。」
て言うんですけど、どうもうまくいきません。
その日もいつものように彼は食卓で宿題をしていました。僕は、食卓近くのソファに寝そべっていました。
と、それまで珍しく黙って宿題をしていた息子が、視線はノートに向けたまま、突然言いました。
「パパ、にんげんのからだのなかで、やくにたたないもの、ってなんだと思う?」
ああ、面倒くさいなあ、だいたい今そんなこと関係ないだろ、と思いつつ僕は適当に返答します。
「盲腸じゃないか。」
すると、僕のほうを一瞥もせずに、息子は言いました。
「もうちょう、は役にたっているんだって。じゅくの先生がいってた。」
ううむ、そうなんだよなあ・・わかっていたけど、そう来たか。大人としては妥当なところを言ったつもりだったけど、これは一昔まえの常識らしくて、どうも最近では盲腸もそれなりに役にたっているというのが常識らしいんですよね、真偽の程は定かではないですけど。
知っておったか。面倒くさいな。
「うん、そうか。」
「ほかには?なにがやくにたたないと思う?」
なんだろうなあ、あんまり思いつかないし、ちょっと疲れてるし、深く関わりたくない気分なんだけど。
「うん、なにかなあ・・・」
それより、宿題に集中しろよ、と僕は、やや、いや、かなり、お座なりに対応します。
すると、息子がさらりと言いました。
「セイツウは?」
え!?僕は、反射的にがばりと半身を起こし、なにか聞き違いでもあったのか、と息子のほうを凝視しました。
今、確か、せいつう、って言ったよな???息子は、依然としてノートから視線を逸らさず、鉛筆を動かしています。
セイツウ、せいつう・・・・精通・・・。何度反芻しても僕が、『人間の体に関しての名称として』思い浮かぶ『せいつう』は『精通』しかありません。
ええと、俺って今、『息子から、精通って言われた父親』なのかな・・・??
僕は、心中大いに動揺するも、できるだけ平静を装いつつ、聞き返しました。だって、そのまま看過しがたい発言に思われたからです。
「ええ、おい、フジ、今何ていった?」
すると、息子は、即答しました。
「せいつう。」
・・・やっぱり、聞き間違いじゃないな。たしかに『せいつう』って言ってる・・・・。続けて僕は再び平静を装いながら聞き返しました。
「・・・それって、何だ?なんでそんな言葉知ってる?」
息子は、従前と同じように淡々と返答します。
「うん、こないだ学校で習った。」
ほう、性教育ってやつか・・・。僕は少し安心しながらも、はて、我々の時代に比べてちょっと時期が早いような、それに、学校で習ったからといって、そんなこと家庭での話題、それも宿題中の無聊つぶしにするかな、普通はちょっと恥ずかしいものなんじゃ・・・といろいろと考え込んでしまいました。
と、息子は、そういう父親の心境を知ってか知らずか、さらに視線を机にむけたまま、またしても淡々と、こう続けました。
「せいつう、ってね、ちゅうがくせいになったら、ちんこの先から『しろいスライム』みたいなものが出てくるんだって。」
「!!」
唖然とする僕に視線すら投げずに、息子はさらに続けます。
「意味ないよね?」
「・・・・・」
「パパもちゅうがくせいのとき、でてきたんでしょ?」
「え??いや・・・う、うん、そ、そうかな。」
「そんなの、やくにたたないよねえ??」
「へ・・・?」
・・いや、意味ないって・・・・そういうわけじゃないんだけど・・・。
僕は、戸惑いつつも、一方で息子がなんだか、怪しげな媒体や猥談などからそういう知識を得たのでないことには、少し安心しました。けど、こういう結果というのは『性教育の成果として奏功している』といえるんでしょうか?
だって、息子は、『中学校に進学して、詰襟の制服を着て、生徒手帳をもつ身なんぞになったら、あら不思議、男性器の先から、ポンっとしろいスライムみたいなものがでてきます。以上。』って思っている様子なんですよね。
こうやって、今ブログを書いている僕の目の前でも、宿題中のはずの息子は甚だ注意散漫な様子で、
「パパ、見て見て、ぎりぎりセーフ!」
なんて言いながら、たまたまそばにあった、『ニッパーの持ち手側で、おちんちんを挟んでみて、ぎりぎりのところで挟み切れない』ことを披露して得意満面です。
・・・ま、今のところは、こんな感じで良しとしますか・・・。
===終わり===
以前、僕の課長だった人の口癖のひとつが『Nobody is perfect.』でした。
実際、欠点の無い人間なんかいない、とは思いますが、僕はというと、驚くまいことか、すごく欠点が多い人間です。それがまたおかしなことに年齢を経るたびに、欠点が新たに増えたり、従来の欠点がさらに深みを増したりするので、重ねて驚いてしまいます。もはや『欠点』というより『欠陥』に近くて、現在の僕という人間の有り様は『欠陥がワイシャツを着てネクタイを締めて通勤している』ようなもんです(もちろん、決して、それでいいや、とは思ってません。)。
そんな僕の、あまたある欠点の中でも、筆頭格に挙げられ、かつ深刻なのが『行動力無き事』です。
これはまことに重大な欠点というべきで、よく、
「私の長所は行動力のあることです!考える前に、行動してしまうタイプです!」
なあんて言う人がいるけれど、そういう人に出会うと、心底羨ましいなあ、と感心します。その表現を借りるなら僕は、
「考えに考えた末に、結局行動しない。」
しかも、
「行動しなかった結果が招かれざる事態を招いても悔やむどころか諦念してしまう。」
という人間だからです。実に憂慮すべき欠陥です。
けれども、そんな僕でも、ごくたまに、本当に稀に、そうですね、数年に一回くらい、ほぼ反応に近く『全く考えもせず行動に出てしまう』ことがあります。
先日もそうでした。
その日、僕は、さるファストフード点のレジの前の行列に並んでおりました。カウンター向こうでは、店のロゴの刺繍されたお揃いの帽子、ポロシャツ、エプロンに身を包んだお姉さん二人が、その頬に笑みなどをたたえつつテキパキと客の注文をさばいております。と、そこへ、いかにも『たった今、休憩から戻り、馳せ参じました!』という風情のお兄さん一人がレジの応援に駆けつけました。お兄さんは、やはり、お揃いの帽子、ポロシャツ、でしたが、急いで駆けつけたと見え、エプロンは手に握り締めたままで、まだ身に着けておりません。そうこうするうちに程なく、僕の順番が来ました。僕の接客をしてくれるのは休憩上がりのお兄さんです。
その時、僕は始めて気がついたんですけど(それも後述するようなことがあったからこそです。)、その店のカウンター内は客席よりやや床が高くなっていて、僕の目線はお兄さんの腰のあたりにありました。特に支障はないです。
お兄さんは、まだバタバタとしながら、エプロンを片手に掴み、それを着ようとしながら、僕への応対を始めました。これもまた、別になんてことはないです。僕は僕で、『おうおう、客の相手するんならちゃんと身支度を先に整えてからだろ!』なんてことは微塵も思わず、淡々と注文を終え、そして支払いをすませようと、お兄さんを再度凝視しました。
そのときです!
僕の視線に真正面に、しかも至近距離から、『お兄さんの股間のファスナー全開』が飛び込んできました。
全開も全開、それはまあ、見事な全開で、遠慮がちに開いているのではなく、取っ手が下まできっちり下げられているのはもちろん、ファスナーの開き方も、綺麗な線対称の縦ひし形です。そうですね、例えていうと『マカロニほうれん荘、の登場人物が驚いたときの口の形』そっくりです。今にでもその股間が『きんどーさん!』なんて言い出しそうです。
ううむむ、なんということだ!
僕の視線は、ちょうど僕の目線の高さにあるそのマカロニほうれん荘に、そのあまりの見事さに、否も応もなく惹きつけられてしまいました。僕は、全く目線をそらさず、しばし、お兄さんの股間と瞬きすら無しに、睨みあっておりました。
お兄さんは、もちろん、気付いていません。果たして、次の瞬間、僕がせっかく、お兄さんの股間の『きんどーさん!』を見続けているにも関わらず(そら、そうです、マカロニほうれん荘と違って見世物じゃないんですから)、幕が下ろされるように、エプロンによって、その綺麗なひし形は僕の視界から瞬時に消えてしまいました。お兄さんがエプロンを着用したわけです。
もちろん、ファスナーは全開のままです。
普段の僕なら、『これは、黙っておくべきかなあ。エプロンで誰にも見えていないわけだし・・』とか、『いやいや、いやしくも接客業、それも飲食業で『きんどーさん!』はなかろう。だいたいが、その前にお兄さんの如何なる行動の結果が斯様な事態を惹起したのか、まことにわかりやすい、しかし、したくもない推測までしてしまうではないですか!?』だの、『同姓の経験からいって、いつかは自分で気付くはず、だからここは見なかったことに・・・・』などと、まずは黙ったまま、しばし心と頭を千千と乱してしまうところです。
ところが、そのとき、自分でも信じ難いことに、僕はまさに『何も考えずに』行動に、いやそれはむしろ『反射』といったほうがよいでしょう、に出たのです。
すなわち、エプロンによって幕がおろされた瞬間、あろうまいことか割としっかりとした声で、
「ファスナー開いてますよ!」
と面と向かってお兄さんに言ってしまったんです。
これには自分でも驚愕しました。己が股間の『きんどーさん!』を指摘されたお兄さんは、それはそれは狼狽しながらレジを離れ、一瞬姿を消すと-さすがに、お客さんの前で、ファスナーを閉める、という不手際は避けたようです。-、間もなく現れ、
「たいへん、失礼いたしました。」
とやや小声で、僕に言いました。
・・・・・『行動力無き事』が欠点の男が、珍しく、本当に珍しく、僕らしくないことに反射的に行動をしてしまったわけですが、今でもその時のことを振り返ると、
「果たして、指摘してよかったのかしらん?・・・確かによろしくない状態だけど、そもそもエプロンで見えなくなったわけだから、俺以外のお客さんは別に不快な思いはしないわけだし・・・。でも、見えないつったって、飲食業で、マカロニほうれん荘はないよな。指摘してよかったかな・・・。それに、そうじゃないにしても後で、同僚の女性に指摘されたりするのは、見知らぬ客の俺に指摘されるより恥ずかしいんじゃ・・・。」
などと、これはこれでいかにも僕らしいことに、ぐるぐると考え込んでいます。
果たして、指摘してよかったんでしょうか?
まっことに見事な、美しいまでのひし形、でありました。
===終わり===
先日、白昼、凄いものを目撃してしまいました。
当日は、確か平日のよく晴れた日で、僕は先を急いで雑踏の中を歩いておりました。
それは、ふと僕の目先の雑踏の風景が少しだけ開けた瞬間に眼に飛び込んできました。
その人は若い女性で、僕のほんの5メートルくらい先にいて、ブラウスに長めのタイトスカート、パンプスを履き、そのスタイルのよさを披露するかのように、背の中ほどまである黒髪を風になびかせ、かつかつかつっ、きりりっ、と先を急いで歩いていました。
普通です。
普通にある『街で見かけた美女』風、です。
でも僕の視線はその女性のお尻の部分に一瞬にして吸い寄せられてしまいました。
僕は、眼を瞬かせて、その光景をしばし疑い、そして、驚愕しました。別にその女性のお尻が特にセクシーだったから(セクシーでなかった、とは言いませんが)、とか、僕が異常に女性のお尻に執着があるから(女性のお尻が嫌い、とも言いませんが)、とかいうことではありません。
僕の視線の先には、タイトスカートのウエストの部分からひらひらと舞う、『70~80センチ大のトイレットペーパー』があったのです。
女性は、あきらかに気がついていません。トイレットペーパーは女性の、かつかつかつっという歩きにあわせ、微妙に右に、左に、交互に、その舞う方向をリズムカルに変えながら、ひらひらと宙をなびいています。
僕は、驚愕しつつも、しばし、その『ひらひら』に視線を奪われてしまい、思考停止してしまいました。
白昼、女性の腰に舞うトイレットペーパー・・・、その有り様は、あたかも腰にしっかりとしがみついた『妖怪・一反木綿』のようです・・・。いや、『一反』には長さでは到底及ばないので、そうだな、『妖怪・サンプル木綿』、といったところです。
サンプル木綿は、太陽の光を浴び、その白さを誇るかのように、眼にも眩しく舞い続けます。
僕は、妖怪・サンプル木綿に驚愕し、一反、いや、一旦、頭の中が晒した木綿色のように真っ白になったあと、はて、なんでこんなことが僕の前で起こっているのだろう、と理解しようと勤め、しばし、ははあ、なるほど!と勝手に心中合点しました。
実は、信じがたいことに、僕も全く同じ結果を招いた経験があったからんです。
その時、僕は、トイレの個室で用をすませ、トイレットペーパーでお尻を拭いて、ズボンを履き、個室のドアを閉めていつものようにトイレを後にしました。と、トイレを出て数歩のところで、背後に違和感を感じ、振り返ると背中のズボンの腰からトイレットペーパーが1メートルくらい出ているじゃあないですか。どうやらトイレットペーパーを使用してそれを切った際、どういうはずみか、使用した後の『ロールのほうに残っていた端っこ』をパンツを履く際にカラカラと『巻き込んで』しまい、巻き込んだことに気付かずに、個室をあとにし、巻き込まれたロールのトイレットペーパーは、しばし、引きずり出され『長さを稼いだ』あと、個室のドアを閉める際に切られた、ということのようだったんです。だから、『腰から1メートル弱のトイレットペーパーが垂れている』という構図(僕に言わせると『腰から垂れている』方は、メインではなく、『パンツに誤って巻き込まれたトイレットペーパー』がメインで、垂れているのはその残滓、なんですけどね。ま、どっちでも一緒です。)になったわけです。
僕は、世の中の女性一般の個室での用足しには全く詳しくないので、僕のケースと彼女の妖怪・サンプル木綿とが同じ因果関係にある、とは断言できませんが、おそらく過程はともかく、『最終局面的』には同じことが起こったのだろう、と勝手に合点しました。
しかし、僕が合点したところで、眼の前のサンプル木綿のたなびき、は別に無くなりません。あまりの隠し立てなしの(まあ、気付いてないんだから当たり前ですが)、堂々としたサンプル木綿の前に、僕は、結局合点はしたものの、ただただ凝視するだけでした。
どうも周りの人も同じような状態みたいで、誰もその女性に関わろうとしません。
依然、かつかつかつっ、ひらりひらり、は続行中です。
そして、こういうときに限って間の悪いことに、女性の歩く方向と、僕の歩く方向は暫時同じ方向です。僕は意図せずして、サンプル木綿に、三歩下がってなんとやら、という風情で追従していく形をとっていました。
さて、これから、どーする?
僕は、眼の前の、妖怪・サンプル木綿の動きを眼で追いかけながら、しばし、考えました。
①そばに言って、肩をたたき、『すみません、後ろからトイレットペーパーが出てますよ。』と言う。
・・・いや、いかんでしょう。こういうのを異性に指摘されるのは、女性は恥ずかしいんでは?女性から指摘されたら恥ずかしくない、ってこともないだろうけど、どうせなら同性から指摘されるほうがいいに違いない。よし、異性からの指摘でも、こんな白昼の雑踏の中、というのちょっとまずいんじゃ・・・。もっと人影の少ないところでの指摘のほうがベターだろうし。きっと、ここにいる周りの人も同じように考えているに違いない・・・。
これは、やめておくべし。
②背後まで接近し、女性が気付かないように、そっと、妖怪・サンプル木綿をちぎる。
これは、なかなかの上策と思われます。なぜなら、そっとちぎって『無かったこと』にできれば、女性は、妖怪を腰からなびかせて街中を歩いたこと事態、未来永劫気付かずにすむ、わけです。せいぜい、次にスカートをお脱ぎになるときに、妙に半端に長いトイレットペーパーが、つまり妖怪の頭部が残っていて、『???』と思うだけでしょう。これはなかなかいいです。しかし、待てよ・・・。これは彼女のとって『見知らぬ男性』である僕としてはリスクが大きすぎないですか?だって、首尾よくいけば大団円ですが、もし、引きちぎるときに女性に気付かれてしまったら・・・・。女性が『お尻に何かが触れたような感触』がきっかけで後ろを振り返ると、そこには不自然に近い距離に立っている、しかも、トイレットペーパーを片手に握りしめた男性が・・・・。これは、かなりの確率で警察の厄介になる構図です。僕の知る(といってもその数は非常に知れてますけど)範囲では、『自分が妖怪・サンプル木綿をスカートのウエストからたなびかせて歩いているかもしれないと、いつも考えている女性』はほぼ皆無だからです。だから、彼女や警察にいくら事情を説明しても信じてくれない可能性は高いです。ましてや、説明の仕方によっては、『これはあなたの妖怪・サンプル木綿を退治したものである!』だの『嘘だと思ったら、いますぐスカートの中をご確認したまい、あなたのスカートの中にはトイレットペーパーが10センチくらい残っているはずである!』だの、と言い訳したら、まず痴漢・変質者扱いは逃れられないでしょう。
ふむ、これもやめておくべし。
③このまま、今いる周囲の人、のみならず、未来の彼女の周りの人、とも『無言のうちの善意のコンセンサス』を取り、彼女が自分で気付くまで放置してしまう。
・・・・僕自身の場合を考えてもこういうのは他人から指摘されるのはやはり恥ずかしいものです。少なくともその指摘した人、とそのとき周りにいた人、には妖怪・サンプル木綿を従えて歩いていてこと、を見られてしまったのは『認めざるを得ない事実』だからです。今いる人も、未来の彼女の周りの人達も、見てみないふりをし続け、彼女が自分で気がついたなら、それは、それで、恥ずかしいでしょうけれど、『誰に見られていたか』という『目撃者の具体性』、は排除できるし、ひょっとしたら、論理的にのみですけど、『万が一にも、指摘されなかったんだから誰も気がついていなかったんじゃないか』という『妖怪・サンプル木綿、推定無罪の論理』も彼女の考え方次第では成り立ち得る、かもしれないじゃないですか。(実際には、こんなしがないブログで僕によって世間にさらされちゃってますが。)それに、この方策から導き出され得るもっといい結果は、『最後まで彼女自身も気がつかない可能性がある』というところにあります。すなわち、現在も未来もみんなが指摘しないうちに、彼女が次回の用足しにいくわけです。そこで、用足しの準備をしたとき、妖怪は音もなく、はらりはらりとトイレの床に落ちます。彼女はそれが自分の腰で数時間、虚空を舞わせていたものであることに気がつくどころか、それを見て『前任者の忘れ物』とみなし、『まあ、最近マナーの悪い人が増えたわね、こんな長いトイレットペーパーを床に散らかしていくなんて!失礼しちゃわね!』となり、さしもの妖怪・サンプル木綿もこうなってしまっては、哀れトイレの床に以前から転がっていた塵芥と帰してしまう、わけです。しかも、繰り返しますが、彼女は、自分が妖怪・サンプル木綿を白昼腰から泳がせていたことも知らないままに終わることができる、のであります。この方策は、現在と未来の彼女の周りの人も何もしないでいてくれること、という壮大なコンセンサスを前提とすることを除けば、ベターな方策と思われました。
うん、これは、いいです。
結局、僕は、散々心をかき乱された結果、妖怪との接触も対決も回避し彼女のためにも『何もしない』ことを良しとする結論を選択しました。
・・・というとなんだか聞こえが悪くないかもしれないですけど、とどのつまり、しこたま理屈をこねて、面倒な事を避けた、ってことですね。
しばらくすると、彼女は僕と袂を分かち、違う方向へ歩いて-もちろん、妖怪を引き連れたまま-かつかつかつっ、ひらりひらりひらり、と去っていきました。
そのあと、一体どうなったのか、大いに興味はありますが、僕としては、『妖怪・サンプル木綿、哀れ架空の前任者のマナー違反と散る』ように祈りつつ、見知らぬ彼女との別れを果たしました。
ただし、僕がもし、トイレットペーパーをお尻にぶら下げていたら指摘してください。少し恥ずかしいけど、僕はほかにも見た目に恥ずかしいところがいっぱいあるので、たぶん大丈夫です。
是非、ご指摘お願いします。
それにしても、すごいもの、見ちゃったなあ。
===終わり===
今日は、『男性とはそもそも遺伝子レベルにおいてしょうもない生き物ではないのか?』ということについて考えてみたいと思います。
・・・・いえ、違います。前回は『男とはいかにしょうもない生き物か?』』で、今回は、もっと壮大かつ科学的考察を伴う『男性とはそもそも遺伝子レベルにおいてしょうもない生き物ではないのか?』なんであります。
先日、テレビを見ていたら、ある9歳の女の子のいる人が、娘さんと二人で出かけるとどんな感じですか?と聞かれて、
「もう女の子は9歳にもなると、もうデートですよ、デート。もうデートです。」
と三回も『デート』と言ってました。
「パパ、寒くない?とか聞かれるんです。もうデートですよ。」
だそうです。それを聞いて、ふ~~ん、女の子ってやっぱり大人なんだな、と心底感心しました。僕は自分自身の生い立ちも含めて女性の子供という生き物と一緒に暮らしたことが皆無なので、実際のところはよくわかりませんが、9歳の男の子とは随分違うような気がします。
例えば遺伝子的考察として、我が家のジュニア(男性)と比べてみましょう。
彼は、9歳よりさらに1歳おとなのはず、の10歳です。
先日こんなことがありました。僕が家にいてテレビを見ていると、彼が帰宅しました。お、帰ったな、と思い、しばらくたって、ふ、と彼を見ると、どういう目的のためか、ズボンとパンツを豪快に足首までおろして下半身を露出しています。ちなみに自転車で外出したので、その時の彼の上半身は、ヘルメットをつけ、ジャケットを着ているままです。しかも、下半身を露出しているくせに、その格好、-つまり、ヘルメットにジャケット、下半身は足首までズボンとパンツを下ろしたまんまで-、でなんだか熱心に壁にかけてあるカレンダーを見て日付をチェックしています。なんだ、こいつ、さては下半身丸出しにしておいて、丸出しにした目的を忘れて、カレンダーなんかみていやがるな、と僕はぼんやりと思いながらも、風呂上りに全裸で走り回るようなその方面の恥じらいはゼロ、の男なので、別段奇異にも思わず、テレビ鑑賞を続けておりました。
よくわかんないんですけど、10歳の女の子だとこういうことは、つまり、あえて言葉にすると下半身丸出しで、家の中をうろうろする、なんてことはないんじゃないかしらん?
と、そのとき、突然、
「パパ!」
と真横で息子に呼びかけられました。こいつ、いつのまに真横にきたんだ、と虚をつかれつつ、振り返って、僕は驚愕しました。なぜなら声のほうに振り返った僕の眼前には、息子が左右の手で、うんとひろげて突き出された彼の『肛門』があったから、です。
「うわ、な、なんだよ!」
「パパ、写真とって!」
「え?なんだって?」
「フジ、こうもんがさっきからすっごくかゆいんだよ。それで、どうなってるかしりたいから、けいたいで、しゃしんとって。」
と彼は、肛門を目いっぱい広げながら真剣に訴えました。
「いやだよ!そんなに痒いなら、風呂で洗ってこい!」
全く、しょうもない。つきあってられません。
僕が、彼の案を却下すると、彼は、ぶつぶつと不平を漏らしながら、風呂へ向かっていきました。
彼が、帰宅していきなり下半身を露出したのは『肛門がとても痒い』からだったようです。それで取り合えず下半身につけているものを全部脱いじゃったんだけど、ふとその目的を忘れて、目の前にあったカレンダーに気をとられてしまった、ということのようです。
・・・よくわかないけど、10歳の女の子だと、こういうことは、つまり、肛門が痒いから見てみたいので携帯電話で写真をとってくれ、なんてことは、ないんじゃないかしらん?
さらに、その数日後のことです。僕が、寝室で、寝転びながらまたしてもテレビをみていると、おもむろに愚息が僕の傍らにやってきました。彼の手には小さな置時計が握られています。
「いい、パパ?」
「・・・なんだよ?」
「勝負ね?」
お、なんだ、なんだ、大人のこの俺に勝負を挑むとはいい根性してるじゃねえか?
「どういう勝負だ?」
「今からね、」
「うん、」
「パパが、フジの、」
「うん、」
「こうもんをくすぐって、」
「・・?」
「それで、フジが10秒間我慢できたら、フジの勝ち!」
・・・・なんだそれ?
あまりの彼の提案が唐突なのと、奇抜なのに、当惑する父親をよそに、息子は、時計を手に、うつぶせになって空を飛ぶヒーローのようなポーズをとり、すでに臨戦態勢に入っています。
「パパ、いいよ!」
いや、いいよ、って。まあ、つきやってやるか、だいたい、経験上、こっちが本気を出せば数秒で粉砕である、自分から不利な戦いを挑むなんて、それよりだいたいなんで、よりによって『肛門』なんだ?
僕も、やや釈然としないまま取り合えず臨戦態勢にはいりました。
「いくよ?」
「うん。」
「ヨーイ、ドン!」
僕は、容赦なく、彼の肛門をズボンの上から、くすぐりました。
「ギャハハハハハハ!」
息子は置時計を片手に悶絶しています。それ見たことか。
「ダー、ハハッハ、ウヘエーヘヘヘヘ!」
あれ?こいつ意外に頑張るな、これでどうだ!
「ド、ウワハハハッハ、ギャー!」
野郎、大人をなめるんじゃねえぞ。
「ウワハハハハハハ、やった、じゅうびょう!勝った!!」
「何、ちくしょう、負けた!!!」
息子は寝たまんまガッツポーズ、いつのまにか必死になっていた父親は敗れて大いに口惜しがりました。
『勝った!』『ちくしょう、負けた!』って・・・・・
ふたりともしょうもなっ!
10歳の女の子なら、こういうこと、つまり、肛門をくすぐって、10秒耐えたら勝ち、なんてことやらないんじゃないかしらん???
と、いうわけで、男性というものは、そもそも遺伝子レベルで女性に比べて、しょうもない、生き物なのではないか?という考察でした。
・・・・と、ここまで書いて、思ったんですけど、うちの親子がやっていることって、これを父親と女の子でやったりしたら、つまり、こどもの肛門を写真にとる、とか、子供の肛門を耐えられなくなるまでくすぐる、なんてうちの場合は息子から頼まれたとはいえ、単純に構図だけだと、最近問題になっている、S的虐待(えすてきぎゃくたい、とお読みください)そのものじゃないですか。
結論。
・男性は、やはり、遺伝子レベルにおいて、しょうもない生き物である。
・この親子のしょうもなさのレベルは、S的虐待(えすてきぎゃくたい、とお読みください。)寸前、である。
尚、本件に関しては、検証例が少なく、有意とは言い難いため、引き続き例証していきたいので(愚息のしょうもなさにちょっと不安なこともあります)、
・父親はともかく、いやいや、男の子でもそんなしょうもないのはおまえの家だけで、他の子は、そんなことはない。
・その通り、我が家の男の子も(或いは父親も)しょうもないぞ、遺伝子レベル論、賛成。
・いやいや、女の子でも、しょうもないことはするぞ。
など、意見があれば、広く世間に求めたいと思っておりますので、ご一報ください。
ええ、但し、S的虐待(えすてきぎゃくたい)に関する情報は、とりあえず受け付けておりません、あしからず。
===終わり===
今日は、『男とはいかにしょうもない生き物か?』について検証してみます。
二年くらい前に、子供とふたりで自転車で出かけているとき、ちょっと、たいへんなことになりました。いや、してしまいました。
自戒を込めて以下続けますが、皆さんも十分にご留意ください。
今は、もうこのときのことに懲りてふたりともやらなくなったんですけど、そのときは『併走して走りながら僕が片手で子供の背中を、うん、と押して息子がそれをきっかけに一瞬ぐんと加速する』という遊びをよくやってました。そういうことをやるときは、だいたい押す僕も押される息子もなんとなく心準備をしてからやっていました。
しかし、そのときは、僕が子供を驚かそうと小さな道の端っこを通っているときに、やや唐突に彼の背中を押したんです。そしたら心準備を出来ていなかった子供はハンドル操作を誤って、一気に車道にはみ出てしまいました。そんなところに対向車でも来ていたら・・・と思うとぞっとしませんか?ぞっとしますよね。ところが、思うだけでじゃなくて、実際に対向車が来ていたんです。あ、と思う間もなく、息子はこけながら自動車の前に転がりでてしまいました。幸いなことに、本当に幸いなことに、その自動車とはある程度距離があり(まあ、距離があったから僕も息子を押してみたんですけど。但し、真剣に猛省してます。)、そのうえに、その車は僕の近所の『大和大立目自動車教習所』の路上教習車でした。だから、そもそもスピードを出していなかったうえに、迅速にブレーキを、-おそらくは助手席に乗っていた教習所の教官が踏んでくれたものと思われます。-、かけてくれたので、幸い車は、息子のかなり手前で、余裕をもって停車してくれて、事なきを得ました。
とは言え、親としては、肝を冷やしました。
「なんで、いきなり押すの!」
と憤る息子にはもちろん、大和大立目教習所の教習者の運転手と助手席の教官にも平謝りに謝りました。おそらくはブレーキをかけてくれたであろう、助手席の教官さんは、僕に謝罪にとくに感情的にならずに、だいじょうぶですよ、という表情で、頷いてくれました。
怒鳴りつけられてもおかしくないのに、冷静な対応をしていただいた、といえましょう。
日を置かずに、僕は、僕にとっては安からぬお菓子などを買い、会社帰りに、大和大立目教習所を約束もなく訪ねて、事務所で、実は先日かくかくしかじかなことがあり、叱りつけられてもおかしくないのに、冷静なご対応をいただきまして、これはつまらんものですが、皆さんでどうぞ、とやりました。
そしたら、えらいもんで、対応してくれた事務所の方が、
「ああ、この近くの通りの路上教習のときですね、そういう報告は受けています。いえ、そんな御気を使わせて・・・我々は当然のことをしただけですので。今担当の教官は生憎教習中でして。すみません。」
とちゃんと事実を認識しているばかりでなく、かえって、恐縮されてしまいました。
僕は、へえ(これは傲岸不遜な感想というべきですが)教習所ってあんまりいいイメージがなかったけど、こんな報告意識の高い、謙虚な教習所もあるんだ、と思いつつ、何度も頭を下げ、
「担当の教官の方にもどうかくれぐれもよろしくお伝えください。」
と言うと、教習所を後にしました・・・・・。
上記のことは、なにしろ大袈裟に言えば息子の生命にかかわるようなことだったので、鮮明に覚えていいます。今でも、俺としたことが、友人や親戚を見渡しても輪禍には無縁ではないのに・・と思い出すたびぶるり、と震えながら猛省する次第です。
そして、数日前のこと、筆者(男性です。)は、これからの人生設計はどうするかな、とぼうっと頭の中を掻き回していたときにも、いつのまにやら、このことをなんとなく思い出していました。それで、思い出すにまかせて、しばらくゆる~~くブレーンストーミングしていました。
と、数分後、そろそろなんかいいアイデアでも浮かんだかなどれどれ、と惰性で稼動させていた脳の中身を、心でもって検証してみて、ええ!と愕然としました。
なんとなれば、そのとき、この男の脳の中から拾われた台詞は、下記だったのです!
「・・そういえば、あのときの助手席の教官、雛形あきこに似た、たいそうな美人だったなあ・・」
そこかよ!なんてことでしょうか!この男は、息子をたいへんな危険にさらしたにもかかわらず、そのときブレーキをかけてくれた助手席の女性教官のイメージを反芻して、脳内でにやにやしてわけです。
しかも、『雛形あきこに似た美人』って、いう妙に具体的な直喩を伴った反芻って、なんだっ!??
しょうもなっ!
かくの如く、男っていうのは、本当にしょうもない、生き物です。女性には、まずこういうことないでしょうね、きっと。
・・・え??お前だけの低俗な思考回路をもってして勝手に『男性』一般に敷衍させるな?俺は違う?いやいや、御同輩さま、こんなところで、無理しなくてもいいんですよ、男性の皆さんなら、なにかしら身に覚えがあるくせに。
ええ、それと、筆者(男性です。)が雛形あきこの熱烈なファンなのかというと、そうでもないです。でも、好きか嫌いかと聞かれれば、そうですねええ・・・・『どっちかつうと好き』かなあ・・・。
え?そんなこと誰も聞いてない?興味ない?
そうですよね、全く男っていうは、本当にしょうもないです。
皆さん、交通安全、十分ご留意ください。
===終わり===
僕が寝室で寝転がって、ひとり阪神タイガースの試合をテレビ観戦していたら、十歳の息子が突如僕の傍らに飛び込んできて、言いました。
「ねえ、パパ、聞いて聞いて!」
「うん、なんだね?」
今、いいところなんだけどな、でも、こいつの場合は、日本語でじっくり話しをしたいときに母親が話し相手にならない、という特殊事情があるから、まあ、ここは例によって俺の役回りだな、しょうがないか。
あまり、乗り気じゃない父親もものかわ、息子は、
「これはね・・・という話でね。」
とまず題名からはいると、満面に笑みを浮かべて、立て板に水、の如く澱みなく話し始めました。
「ふん。」
「まず、男がね『うぎゃあ!俺は実はお前に秘密にしていたことがあるううっ!』って言ってね、」
「ふん、それで?」
「それで女の人が『ひえええ!秘密ってなによおおおっ!』ってね、」
と、息子は、彼の『お話』の登場人物である、男性と女性、両方を熱心に演じます。
「ふん、それで?」
「ぐわああ、俺はああ、実はお前に秘密でスパゲティを食べたんだああっ!」
「きゃあああ、なんですってえええっ!?」
「ほう。」
「うへえええ、しかもそれは、ナポリタンンンぬぬっ、なのだああっ!」
「うぎゃああ、なんてこと、あなたわたしにいいい、きゃあ、秘密でスパゲティのおお、いやあああ、しかもナポリタンを食べたのねええっ!」
「あわわわ、そうなのだっ!」
「ぎえええ、なんてことをおおお、」
「ふん。」
この話のどこがそんなに楽しいんだろう。
「してくれたのおおお、あなたなんかああっ、」
「うん。」
「ぎえええ、もう、ぜっこおよおおおおっ!」
「!!くだらねえ!がははははは!」
父親は社内有数の阪神ファンを自認するにも関わらず、不覚にもついさっきまで熱心に見入っていた阪神タイガース戦中継そっちのけで、弾かれたように爆笑してしまいました。
「えへへへへ!面白いでしょ?」
「いや、全然面白くない!全くくだらん!ぐわははははは!」
「あはははは!」
息子と二人でひとしきり爆笑したあと、再びひとりになって、僕はいろいろと考えさせらてしまいました。
あんまりいろんなことが思い浮かんだため、そのときのことを全部うまくは表現できないので、主だった認知を整理して箇条書きにしてみます。
①こいつ(愚息)は、通常の学業においては、『28』などという、そもそもそんな値が存在し得るのか?というような偏差値を取ってくるような体たらくではあるが、実は、ストーリーテラーとしては希代の天才なのではないかしらん?・・・・
だとしたら、そういう方向に道をつけてやるのが親としての責任なのでは?
②いやいや、それは単なる『親ばか』というもんで、贔屓の引き倒しに過ぎない、息子は普通の凡庸な児童である。
③否、①でも②でもなく、斯様な話に我を忘れて爆笑するところをみると、父親が、そもそも一個の社会人として精神年齢が低すぎる、ということであり、実はそのことこそを憂慮すべき、なのではないのか?
④もし、③である、とすれば、僕が資本主義実社会で不遇をかこち、未だに平社員に甘んじているのも説明がつく、というもんである、うん。
・・・・などなど。
いっぱい考えが浮かんだにしては、今のところはまだ明快な解決策も思い浮かばす、特に具体的な行動には出ていません。
まあ、息子の次回作品を聞いてからでもいいか、と結論をあとのばしにしています。
そうそう、最後になりましたが、息子が自分で作ったという上記の話の、これまた自分でつけた、という題名を記しておきます。
題名を書いておかないと、彼に、これではパパ、仏作って魂入れず、画竜点睛を欠く、というもんじゃないか!と怒られてしまいそうなので(もちろん、彼はそんな故事成語はまだ知らないですけどね。何しろ偏差値28なので。)。
この話の題名は、下記だそうです。
すなわち、
『ぜっこうましーん』。
・・・お後がよろしいようで。
===終わり===
さして好評でなかったにも拘わらず、前回書いた話に自分でインスパイアーされてしまい、今回も尾篭なお話です。
例によってお食事前、お食事中の方は読まないでください。
この話は、僕の父親に読まれちゃうとちょっと困るんですけど、幸いに、僕の父親は21世紀のこんにちにあって、パソコンどころか、ファックスも使いこなせない『昭和然とした男』なので、まず、安心して書いてしまうものであります。
僕の父親かずまさは、月に一回程度、結構な遠隔地に蕎麦打ちに通っています。行くと、かなりの量の蕎麦を我が家にも分けてくれます。『つなぎ』を使わない蕎麦粉100%の蕎麦であるぞ、というのが(毎回言われるんです。)、『昭和然とした男』かずまさの自慢です。
生蕎麦、ってやつですね。
春まだ浅い先日も、かずまさが蕎麦打ちに行った日に何パックかの蕎麦をわけてくれました。土曜日だったと記憶しています。
蕎麦を受け取ったさい君は、冷蔵庫がいっぱいだ、とかで、家の中でも比較的に安定して気温の低い玄関に蕎麦を置きました。何故そういう経緯になったのかは、もう忘れましたけど、土曜日にもらった蕎麦を食べたのは、結局のところ、月曜日の夕食で、でした。
月に一回蕎麦打ちに行っている、と言っても、そこは素人ですから、出来不出来、があります。今回のかずまさの蕎麦は、麺の長さが全然なってなくて、茹でるとぶつぶつと切れて、なんだかみんなマカロニみたいな長さになってしまいました。
「これ、箸では食べらんない。」
今このブログを書いている横で、アメリカのドタバタアニメをテレビで観ながら爆笑している、やや精神年齢に不安のある息子は、そう呟いて、スプーンを持ってきて、蕎麦を『掬って』食べ始めました。それでも、僕も息子も蕎麦好きなので、つつがなく食事はすすみました。さい君も、僕と結婚して日本に来てから蕎麦好きになりましたが、その日は、ダイエットだ、とかなんとかいう理由で、かずまさのマカロニ蕎麦は食べませんでした。
と、僕と息子がマカロニと格闘している食卓にさい君が寄ってきて、ふと、言いました。
「だいじょうぶだった?」
「へ?なにが?何であるかね?」
この、ミゼラブルな麺の長さのことかな・・・?
「いやね、茹でるときに、ちょっと臭ったの。」
「え?いや、美味しいよ。なあ、フジ?」
「うん、短いけど、美味しい。」
息子は、スプーンで一所懸命蕎麦を掬いながら言いました。
「そう、じゃあ、残りも全部茹でちゃうね。」
かなりの量を食べてから、『茹でるときに臭った』と報告するのも、なんだかアナーキーな言動ですけど、僕と息子はその後も追加で茹でられたマカロニ蕎麦をかたじけなく、ふたりで平らげました。
その夜・・・。
すでに寝付いていた僕は、夜中に、ふと、胃のあたりの膨満感と、食道のあたりの胸焼けを感じて、目を覚ましてしまいました。
しかし、あまりきつい感覚でもなかったので、僕はこれらの違和感に『気付かなかった』ふりをすることに決定して、再度寝ようと試みました。でも、膨満感と胸焼けは、じんじんと増してきて、なかなか寝られません。
と、その時、僕は気付きました。さい君と僕の間に寝ている息子がなんだか挙動不審なことを。
いつもよりも激しく寝返りを繰り返していて、どうも熟睡していないみたいなんです。あれ、こいつ、どうかしたのかな?と僕は、暫時、自分の違和感を忘れて、寝られないことも手伝って息子を観察していました。
すると、息子の寝返りと挙動の不審さは、だんだんと激しさを増してきて、うつ伏せに寝ていたかと思うと、突如がばっと半身を起こし、そのまま布団の足元の方向へ、今度は仰向けに、どう、と倒れたりし始めました。
そのうち、寝返りだけではなく、
「ううう・・・おなか・・いたい」
と呟き始めました。
息子も向こうのさい君は、気持ちさそうに熟睡しています。
ことここに至って、僕は、これは『気付かないふり』どころの状態ではなく、『ははん、俺とこいつは、蕎麦にやられたな』と認めざるを得ませんでした。
息子は、相変わらず、挙動不審で、僕も自分の気持ち悪さから彼の気分は推して知るべしで、大いに同情しつつも、特にこれといった手立てもなく、ふたりで、布団のなかで、もぞもぞとすながらしばらく過ごしました。
と、それまで暫時無言でもぞもぞしていた息子が、がばりと半身を布団の上で起こしました。ああ、またこいつ、『やられた!』みたいな感じで仰向けひっくり返るな、と思ってみていたら、さにあらず、今度は起き上がったまま、一瞬固まったかと思うと、こう言いました。
「う・・は・く・・」
え?僕は起きていたことをいいことに、咄嗟に半身を起こすと、片手を彼の口の下に差出しました。我ながら年齢に似合わず、なかなかの反射です。果たして息子は、彼の『予言』に違わず、言うや否や大量のマカロニ蕎麦を戻してしまいました。そのあまりの量に父親の健闘もむなしく、吐瀉物は僕の掌におさまらず、彼の枕の上に溢れ落ちてしまいました。動きのとれなくなった僕は大声を出して、さい君を起こし、まず驚いて、それからやにわに事態を把握して雑巾を取りに走った彼女が戻ってくるまで、息子の吐瀉物を手にしたまんましばらく止まっていました。
ところで、人間の咄嗟の認知というのはなかなか面白いものです。
僕が、息子の戻したマカロニを手で受け止めたときに、反射的に頭に浮かんだ感情は、今思うと予想外で、なかなか変わった類のものでした。
「うわ、布団が汚れる!」
でも無く、
「ああ、苦しいよな、可哀想に。」
というような美しい親の愛情の発露の如く、でもなければ、
「うわあ、やべえ、俺も『もらいマカロニ』(仮名です、推測してください。)しちまうよ。」
と、いうようなものでもありませんでした。
すなわち、僕が、その瞬間思ったことは、
「お・・・こいつ・・ほう、そうか・・なかなかやるなあ。」
というものだったんです。
何故僕がそういう風に感じたかというのは多少の説明を要します。即ち、息子は、
「うう、おなかがいたい」
と唸っていっるときは、今思うと、ほぼ全て日本語だったんですけど、もどす直前に搾り出すように『予言』した、
「う・・は・く・・」
という言葉は、僕にとっての外国語である、さい君の母国語だったんです。
それを聞いた僕は、手が汚れてしまったことや、枕が汚れてしまっていることや、自分の気持ち悪さもいい加減限界に来ていること、などという事実にも拘わらず、『おお、こいつ、俺と違って、やっぱりネイテイブ・スピーカー!』と妙に感心してしまったんですね。
だって、『肉体的に苦しみながら咄嗟に緊急事態を伝えなくてはならないとき』には、普通マザータンが出てくるもんだと思うから、です。
『訳してる』暇なんかないでしょう?
尚、その後、程なく、僕も息子と同じ症状を呈し、しかし、そこは大人ですので、粗相なく、トイレで処置しました。
いや、なかなか苦しかったです。
今回の苦しさは息子にとってもかなりのものだったようで、ドタバタアニメをこよなく愛する幼い息子も、
「蕎麦で、パパとフジがたいへんなことになっったことは、じじに言わないほうがいいよね?」
と珍しく、大人びた配慮までしてました。
と、いうわけで、今回のことで僕が学んだのは、
①息子は、少なくとも咄嗟に『吐く』というときは、さい君の母国語のほうが心情にしっくりくるようである。
②生蕎麦は、冷蔵庫に保存し、かつ、その日に食すべし。
と、いうことです。
===終わり===
今回は(今回も、かな?)尾篭な話なので、お食事中の方は今は読まないでください。『食事云々以前に尾篭な話はちょっと・・・』という方も読まないでください。
『なに、なに?尾篭な話は大好きだぞ!』という方は、わくわくしながらどうぞ。
海外に住んでいたとき、一番のお客さんはフランスにある会社でした。それで遠くフランスから2ヶ月に一回くらい、出張でフランス人バイヤーが、2,3人ばらばらとやってきます。来ると大抵2、3泊していきます。そのうち一人のバイヤーが来たときのことです。
だいたい昼間は一日中商談をして、夜は、毎晩一緒に食事をするんですけど、ある日、そのバイヤーが、
「高級ホテルのレストランでの食事はもう飽きたから、今日はもっと野趣あふれたところへ連れて行ってくれたまい。」
と面倒なことを言い出しました。どうしようかな、と僕が思案していたら、当時の僕の上司、現地人の社長(僕より5つ年下の女の子)が、
「おお、そうか、なら、いいところがある!」
と勇躍、あるすし屋に行くことを提案しました。そのすし屋は、高級ホテル街や、普段日本人が行く日本料理屋街から離れて、ぽつんとあるすし屋で、僕は行ったことがありませんでした。
「あそこは、安くてうまい!しかも、野趣にあふれている!」
と社長はいやにご推薦です。それを聞いたフランス人もにこにこして、
「おう、ではそこに行こう!」
ということで、僕が口を挟む隙もなく決定してしまいました。
その頃の僕は、すでに、駐在して何年か過ぎ、駐在前の出張や、駐在初期期間でこそ、食あたりもしていましたが、あまりおなかをこわしたりしなくなっていました。そうしたこともあって、人間とは(いや、僕とは、かな?)恐ろしいもので、いつのまにか『俺は慣れている≒俺は安全だ』と勘違いしてしまうもののようです。しかし、慣れていることと、客観的状況が安全かどうか、を結びつける根拠は実は全く無いんですね。というわけで、結局僕は、『そんなすし屋行ったことないなあ、まあ、俺はこの国に慣れているから大丈夫だろ。』と高ををくくって唯々諾々とそのすし屋での晩飯に行くことになりました。
夜、社長、僕、僕の部下の中国系フランス人、とそのフランス人バイヤーの4人、ですし屋に到着してみると、なるほど、野趣溢れる店で、店員も全員現地人、客も全員現地人で、店内はなにやら派手なライトで彩られ、その世界観は『日本的』というより、『ディープアジア』といった感じです。僕は、咄嗟に-宣伝しか観たことないですけど-、
「おお、ブラックレイン!みたいだ。」
とマイケル・ダグラスと高倉健が出ていたやくざ映画(ですよね?確か)に描かれていた『妙にディープアジアンな日本の光景』を思い出しました。
バイヤーはその雰囲気をたいそう喜んで、食事はたいへん盛り上がり、日本酒まで食卓に並びました。僕も、ちょっと怪しい店だけど、俺は慣れているから大丈夫だ、と(だから、慣れているから、安全、っていうのはおかしいんだって、ね。)生ものだろうが、何だろうが並べられた食事をかたじけなく平らげ、多少変な色だな、と思った日本酒も豪快に飲み干し、気持ちよく酔っ払い、『すし・ブラックレイン』(もちろん、そんな屋号ではないです。)を後にし、帰宅すると、ああ、食った飲んだ、と、ぐうぐう寝てしまいました。
夜中・・・・。
ふと、目が覚めました。なんで目が覚めたんだろう、としばらくぼんやりと考えていたら、なにやら腹部に膨満感が。気にせずに再度寝ようとしましたが、そのうちにその膨満感が痛みに変わってきて寝られません。
その痛みも、『なんとなく腹周りが痛い』という類のものではなくて、今まで経験のしたことのない激しいものでした。すなわち、腹の中からなにかが胃壁を齧っているような『痛点のはっきりとした尖った激痛』なんです。僕の頭に期せずして思い浮かんだのが『エイリアン』という映画のワンシーンです。人体に寄生したエイリアンが腹を食いちぎって外にでてくるシーンです。
最早、寝るどころではありません。僕はベッドでのたうちまわりました。
と、そのうち、激しい便意が襲ってきました。
安易にも『しめた!』と思いました。これは食あたりだな、ということは下してしまえば痛みも治まるわけだ、と考えたのです。果たして、トイレに駆け込み座ると、滝のような『流動性の高い』激しい下痢です。
しかし、僕の予想に反して、腹痛は一向に治まらず、それどころか、今度はこれまた激しい、吐き気を催し、嘔吐をし始めました。
「やられた!すし・ブラックレインにやられたのだ!」
それから僕は、便器と着かず離れず、という時間を過ごしました。汚い話しですが、便意先生と吐き気先生は、お互いに相談をしないと見えて、下している最中に同時に吐き気を催すんです。僕は座っては立ち便器を抱え込み、吐いては座り激しく下し、を繰り返しました。
その合間は、ベッドで困憊してひっくり返っています。でもまるで腹痛は治まりません。それどころか、どうも発熱したようで、物凄い寒気に襲われ、普段寝るときも入れている冷房を切ると、布団をかぶって、それでも寒くて腹を抱えつつ、『すし・ブラックレイン』の憎まれ口をたたきながら、がたがたと震えていました。その時、僕は、ある些細な発見をしてまいました。
それは、人間は寝ているとき、うつ伏せでも、仰向けでも、いくばくかの体重が胃にかかる、ということです。なんだってそんなことを発見したかというと、あまりの腹痛に、いろいろと寝相を変えてみたんですが、僕の疲弊しきった内臓は、普段は気付かない、この僅かな重みに耐えられないんです。そうこうしているうちに、また激しい下痢と嘔吐の為にトイレに駆け込みます。駆け込んでは、ベッドで唸り、唸っては、寝相を変えてみる、を夜中じゅう、何度となく繰り返しました。
しかし、痛みも寒さも収まる気配すら見せません。寝るどころではないです。そのうち、僕は、一計を案じ、バスタブにお湯をたくさん満たすと、裸になり、その中に体を沈めました。これは、たいへんすぐれた対処というべきで、まず、浮力によっておなかにかかる体重が軽減され、痛みが暫時半減し、さらに寒気からも解放されました。
僕は、初めて人心地つき、疲れもあって、そのままうとうととしました。ところがエイリアンはまだ容赦してくれず、そのわずかな睡眠も発作のように襲ってくる激しい便意と吐き気で、じきに吹き飛ばされてしまいます。僕は、バスタブから飛び出ると-もちろん、全裸で-、またしても隣の(海外の住居はバスタブと便器が隣あわせになっているので、こういうときは便利です。『便利』なんて言っている場合ではないですけど。)便器にすわっては下し、下しては立ち上がって戻す、という苦行(奇行、ともいえます。『全裸』ですから。)を繰り返しました。
その状態は結局朝まで続き、朝になって、日本人の医者のいる病院にほうほうの態で駆け込みました。
「検便しましょう?出ますか?」
僕の訴えを受けて、医者は言いました。なにをおっしゃいますやら、今でも座れば、即出ます。
そして、検便の結果を、医者は、まるで明日の天気でも告げるかのようなカジュアルなテンションでいい放ちました。
「アメーバですね。」
ええ!アメーバ!アメーバ赤痢????
それは日本では『法定伝染病』という奴では?僕の頭の中には、一瞬にして、パジャマを着て特別な病棟に隔離されている自分の姿がまがまがしく想像されました。畜生!すし・ブラックレイン、め!
しかし・・・・。この国では、アメーバくらいは珍しくないようで、僕は数分後、数日分の飲み薬を手に帰宅の途についていました。え?飲み薬もらって、おしまい、ってこれだけで、いいの?と呆気にとられるくらい簡単な処置でした。
『下痢が止まるまで薬を飲みなさい。薬が切れてもまだ下痢が続くようであればまた来なさい。』でおしまい、です。
結局、僕は、その後数日間会社を休み、家でふて寝していました。
回復後、現地の日本人にこの顛末を話しました。てっきり同情されるかと思ったら、ぼろかすに言われて散々でした。
「何?『すし・ブレックレイン』(しつこいですが、本当の名前ではないです。)?あはは!あんなとこ行く奴が悪いわ!あそこは、以前日本人の板前が一人だけいたけど、今はもういないから衛生管理なんかむちゃくちゃやで!」
と、うち興じる人あれば、
「おお、『すし・ブラックレイン』!やっぱり当たったか?あそこに行った日本人が当たる確率はイチローの打率並らしいで?う~む、噂に違わぬ高確率や。」
と、妙に納得する人あれば、
「おい、そんな滅多なことゆったらあかん、向こうも商売なんやから、確証もなしにそんなことを言いふらすのは営業妨害やぞ。」
と、叱り飛ばす人までおりました。
冗談じゃないです。
僕に言わせると店の名前を『すし・アメーバ』に変えてほしいくらいです。
ちなみに、フランス人バイヤーを含め、一緒にいった他の3人は全く異常がありませんでした。
尚、正確にいうと僕のそのときの症状は『アメーバ赤痢』になった、ではなく、『アメーバ菌に罹患した。』ということだそうです。アメーバに感染して、血便がでると『アメーバ赤痢』で、血便がでないと『アメーバ菌に罹患した』だけで、終わり、だそうです。僕は激しく下痢をしたけれど、血便ではなかったので、アメーバ赤痢ではない、と、診察してくれた日本人のお医者さんが教えてくれました。
本当でしょうか?なんかこれも処方と一緒で、その場しのぎの適当なことを言われているような気がします。
とにかく、忘れがたい食あたり、でありました。
===終わり===
中学一年生の、それも一学期だったと思います。英語の時間で、ちょうど『英語で数を数えましょう』という授業でした。
部員曰く、二死一塁なのに送りバントのサインを出したことのある野球部顧問の新山先生(愛称、にいやまくん)は言いました。
「・・・ときて『むっつの』はsixth、『16』はsixteen、『60』はsixtyやね・・・・で9は、9はね、ほとんど法則どおり他の数字と同じで、『19』はnineteen、『90』はninetyだけど、『ここのつの』だけは何故かeが綴りに無くて、ninthなんやね。・・・これはそういうもんだから覚えないとしょうがない。」
と、そこで一呼吸おいて、にいやまくんはさらに続けました。
「なぜか『ninthだけeが、ないんす』と覚えておけばええね」。
この一言はさすがの中学一年生にも受けず、そのくだらなさに教室は失笑で満ちました。
僕も、
「うわわああ、くだらねえ!」
と心底思いました。
ある日、普段僕とは日本語では殆ど会話しないさい君が突然こう日本語(らしきもの)で僕にこう言いました。
「エエト、ワタシブタショー。」
これなんだかわかりますか?僕は全然わからない。それで何度も聞き返しました。しかし、さい君は信念をもって、
「ワタシブタショー!」
を満面の笑顔で、しかも何故か得意気に繰り返すばかりです。
はて困った、さい君は一体何を言いたいんだろうか・・・・・?
「あのさ。」
「うん。」
と自慢げに、にこにこするさい君です。
「ブタショーって何?」
「え?ブタショー知らないの!?」
知らないです、そんなの。
「今日、日本語学校で習った・」
「え・・・?」
なんだそら?
さい君はどうも『習った言葉は勇気を持ってすぐ使うべし』という巷間よく言われる『語学習得の王道を実践しているつもり』のようだ、ということはおぼろげながらわかってきました。
「あのさ、それってどういう状況での会話?」
「ええと、例えば、」
「うん。」
「今日はすんごく、」
「うん。」
「寒いので、ワタシブタショー!」
・・・・寒いから豚ショウ????
「ええ、こほん。そんな日本語はないと思われます。」
「ええ、おかしいなあ、外にでるのが億劫なことを日本語でブタショーっていうでょ?」
・・・???・・・!
「あのさ、」
「うん。」
と、まだにこにこするさい君です。
「それって、ひょっとして『デブショウ』じゃない?」
「あっ!!!そうそう、デブショウ!キョウワ、サムイカラ、ワタシ、デブショ-!」
こういうのって他の方はどうだかわかりませんが、僕には確かに覚えがあります。
すなわち、英単語やさい君の母国語の単語を覚えるときに、その単語の音やイメージに近い自分の日本語の語彙をねじ込んで頭にとりあえずインプットするってやつです。
例えば、『sick』っていう英単語がどうもうまく頭に入ってこないときに、
『シックになって検尿が必要でオシックを検査した』
なんてこじつけるわけですね。それでまず、ファーストインプレッションを形づけて、
『sick→オシック→オシッコ→検尿→病気』
と、迂回しつつも強引に頭に単語の、音と意味を、同時に植え付けるわけです。
そのうち、慣れてくると記憶を起こす作業上の変換機である『オシッコ』だの『検尿』だのをイメージの中でだんだん飛ばしていってショートカットできるようになって、ついには『sick→病気』という『本来望むべきの記憶』が僕の頭の中で完成するわけであります。
推測するにさい君も『出不精』を覚えるのに、-彼女たちは漢字がわからないので、音で覚えるしかないですから。余談ですが、日本語で育った人間が中国語を学習するとき、アルファベットなどを使用する漢字言語圏以外から来た人たちに比べて大きな優位性があり、中国語習得が相対的にあきらかに早かった、と『漢字でない言語圏』から中国に語学留学したさい君がいつも言っています。漢字の大半が象形文字、指事文字、会意文字であって普段僕たちは音だけではなく、視覚でイメージを得ている、ということを改めて思います。余談でした-、こういう作業をしたと思われます。
①本来の意味のとおりの『出』と『不精』に分解せずに、『デブ』と『ショー』に音を基準に分けた。
②『デブ、デブ』と連想しているうちに、どういうわけか、デブ→肥満→豚と日本語の『豚』が変換機として出てきてしまった。
③『豚がショーで、デブショー』と頭の中で繰り返しいるうちに『デブ』という日本語と『豚』という日本語が彼女の嗜好回路の中で『漏電』をなした。
④而して、僕に披露するこ頃には『外に出るのが億劫だ』という日本語が、あら不思議『ブタショー』に変化してしまっていた。
・・・・・ということのようです。
でも、こういう試行錯誤は重要ですよね、そのことで、結局は正しい記憶が彼女の回路に訂正して上書きされたわけですから(たぶん)。
僕も中学一年のときの、にいやまくんの話のあまりにもくだらなさに、それ以来9の序数を表す英語の綴りには『e』がなく『ninth』である、ということが堅牢に頭にインプットされて現在まで忘れたことがありません。
『ええ、ほんとかよ?』と思われた方は、是非英和辞書で『19』と『90』と『9の』を引いてみてください。本当に『ninthだけeがナインス』なんです。
それで、じゃあ、その知識のおかげで僕が人生においてなにか得したことがあるか?というと特にないような気もしますが、それはまた別の次元の話だと思います。
尚、蛇足ながら、部員曰く、そのにいやまくんの二死一塁での送りバントは忠実に実行されましたが、全く送りバントを想定していなかった敵チームの動揺のあまりのエラーを誘い、挙句、二死一、二塁というナインスな、もとい、ナイスな結果になったんだそうです。
人生、何が起きるかわからないものです。
===終わり===
仕事から帰宅したら、さい君がいきなり言いました。
「こないだ見たテレビが面白くてね、あのね、あるところに結婚して25年になるカップルがいてね、二人で外食に行って夫が『何をオーダーする?』って聞いたら奥さんがね『私のオーダーはあなたとの離婚よ。』って言って、それで家に帰ったら雇っているベビーシッターが、旦那さん、そんなに暗い顔してどうしたんですか?って聞いて、それで、いいから支度しなさい送っていくから、ってなってそれで、車のなかで、いや実は妻に離婚を切り出されてね、このことは君の両親には言っちゃだめだよ、って言ったら、そんな・・・実は私旦那さんのことを男性としてお慕いしていますの、ってなってね・・・それはそれまでね、そんなある日ね、ベビーシッターが上の男の子の部屋を何気なく覗くとね、男の子がマスターべーションしていて、それであらごめんなさい!ってなって、それで男の子が、いや実は僕はいつも君のことを思いながら・・、知らないわ!ってなってね、それはそれまでね、それでね旦那がバーに行くの、そのバーでね、くだをまいていたら、ある遊び人の客に呼ばれてね、おまえ毎日うるさいぞ、迷惑だ、だいたいそんなむさ苦しいから奥さんに逃げられるんだ、おれが指導してやるプレイボーイってのはこういうふうにやるんだ、って靴を脱がされて捨てられてね、それで旦那さんはプレーボーイに変身してバーでワンナイトラバーをゲットしてね、それはそれまでね、それでそのバーにね、弁護士事務所に勤めている女性の常連客がいてね、その子は職場の上司が好きでね、それでその上司からのプロポーズを待ってるんだけどプロポーズされなくて、それでその旦那のプレイボーイの先生の遊び人の客がいたでしょ、その客がその弁護士事務所に勤めている女性に惚れちゃったの、でもその遊び人の手管をもってしても落せないわけ、それはそれね、それでね、ベビーシッターがね、男の子が私に興味もってるんなら自分のセクシーな姿をみせれば旦那さんも振り返ってくれるかも、て自分で裸の写真をとって、旦那様へって書いて、でも渡す勇気がなくて自分の部屋の箪笥の中にいれてたの、そしたらね、それを両親にみつかってこれは何だって大騒ぎになってね、それはそれね、それでね旦那がね、もう一度奥さんとよりを戻そうとして家族とか友人をいっぱい呼んでね、サプライズパーテイーを開いたらね、奥さんが来る前に、ね、その場に来ていたベビーシッターの両親がおい、なんだこの写真は貴様俺の娘になにをしてくれたんだ、て怒鳴り出してね、旦那さんが殴られて、実はね、ベビーシッターの両親と旦那さんは友人だったわけ、ね、そしてね、旦那の娘が友人を連れてきたら、それがなんと旦那さんの遊びの先生の例のバーの遊び人で、つまりね、弁護士事務所に勤める女性は旦那さんの長女だったの、それでね、旦那さんが、なんだおまえの連れは、こんな遊び人と娘を付き合わせるわけにはいかない、って激怒して、でも遊び人は旦那の点数を稼ぎたいから、旦那を殴るベビーシッターの父親をなんだかけしからん奴って殴り返して、それでパーティーが始まって奥さんが来た頃には会場はめちゃめちゃになっててサプライズどころじゃなかったの、それはそれね、それでね、マスターベーションの男の子が中学だか高校だかを卒業することにそれなって、それで、その卒業式で、男の子が、僕は貫けばなんとかなるという信念があったけど、それは間違いだった、僕の愛は敗れ去ったのだ、ってねベビーシッターとのことをみんなの前で演説したの、そしたらね、出席していた旦那さんがちょっと待った!って言ってね、壇上にあがってきて、おいそれは違うぞ、お父さんはな、おまえの年齢にのときにおまえのお母さんに一所懸命プレゼントをあげて、いまでもその愛を大事にしているんだ、って言ってね、満場の拍手を浴びてね、それはそれね、それでね、その卒業式には奥さんも出席てたんだけど、帰りに旦那さんと奥さんがね、おいまだ俺のこと許してくれないのかい、って言ったらね、だいたい何よこの間のパーテイーは、そもそもなんであなたは私たちの娘の交際相手にあんなに執拗に反対するのよ、いやあいつはとんでもない遊び人なんだぞ、なにしろ俺の遊びの先生で、俺はあいつのおかげで、バーで知り合った女9人と寝ることができたんだ、まあ!あなたなんて破廉恥なバーの客9人と寝たなんてっていってね、奥さんが激怒して先にさっさと歩き出してね・・・・」
ここまで読んで、『今日のブログはことのほか本旨がわからん、いったい何を言いたいんだ、ああ、もう苛々する!』と思われた方がおられたら、実は、それはまさに僕の目論見どおりです。
なぜならその時、僕はまさに苛々のピークにいて『この女は一体何を言いたいんだ!』という考えで頭がいっぱいだったからで、その疑似体験を皆さんにしていただきたかったからです。
僕のもらったさい君はおおむね僕にはできた奥さんだけれど、いくつかこれは勘弁してほしいなあ、ということがあって、そのうちのひとつが、
『異常に話が回りくどい』
ことです。本人も自覚だけはある、そうです。
僕もいい加減話は話は短いほうじゃないけれど、さい君のそれはときに常軌を逸しています。しかも長いだけじゃなくて、『話の本旨が何なの聞いていてもまるで見えない』という特徴があるんです。なんて言うんですかね、旅行に例えると、まず成田からリオ・デジャネイロに連れていかれて、アンカレッジに行って、またさらにロンドンやニューデリーを経由して上海について、上海からやっと香港に行ってゴール、でも、到着するまで香港が最終目的地であることを知らされないで連れ回される、て感じなんです。
そのときまさにそれに該当していて僕は我慢してさい君の話を『うん、うん』とだけ言って、『何だって?バーで靴を脱がされたのか?』って詰問してみたり、『ええ?マスターべーションンン!?』だなんて驚いてみせたり、なあんて茶々は入れずに、いったい何が言いたいんだろう、と辛抱して聞いていました(ちなみにこれでもブログ用に実際よりもだいぶ話を端折ってます。)。
しかし、一向に言いたいことが何なのか見えてこないままで、それどころか、あろうまいことか、この南半球から来た女はこれだけの長い話のあと、こう言い放ったのです。
「ええとね、ええと・・・・それから先はどうなったか忘れちゃったけど、何しろハッピーエンドで、おしまいだったわ。ふふ。」
ええ!終わりかよ!って僕がさすがにイラついて、
「ああああ、なんてこったい!」
とさい君の母国語でわめきつつ(今どき、なんてこったい、って日本語で言う人はポパイくらいしかいないです、)、自分で自分の額を何度も激しく打擲しながら、
「あんたの言いたいことはいったい何だったんだ!その長い話のどこが面白いっていうんだ!?」
と気色ばんで詰め寄ったら、さい君は、
「ええとね、別々に話が展開していたみんながサプライズパーティ-で一同に会するところ。」
と平然と答えました。
僕は、このときの僕のおかれた状況に対し、広く世間に、大いに、同情を求めるものであります。この話は回りくどいだけではなく、-差し支えなければ是非想像を逞しくしてください-100%『僕にとって外国語』でされるんです。帰宅してすぐに、全身を外国語モードにしてエンジンをふかし続けた果てが『それから先はどうなったか忘れちゃったけど、何しろハッピーエンドで、おしまいだったわ。ふふ。』なんですよ、ふんっ!
こういうことが頻繁にあります。
それだけに、その徒労感といったら!!!!!・・・・・。
そらまあ、自分から好んでそういう結婚をしたんだろ、って言われたら二の句も告げませんけど。
ええと、今日のところの結論としては、僕の結婚生活も話の回りくどいさい君と『いろいろありながら・・・ハッピーエンドで・・ふふ。』となればいいなあ、と思います。
===終わり===
えっと、まだ書いてなかったと思うんですけど、僕は特に会社での肩書きは持っていません。
有体にいうところの『ヒラ社員』ってやつですね。
ちょっと前、といっても数年前ですけど、タクシーに乗って帰宅したときのことです。
その頃僕は大阪に勤務していて(蛇足乍、『左遷』されてました。)、阪神間にある社宅に住んでいました。いつもは阪急電車の最寄り駅(社宅まで歩いて数分の近距離です)まで地下鉄と阪急電車を乗り継いで帰るんですけど、その日は、確か東京出張の帰りかなんかで、新幹線に乗って帰ってきたついでもあって、乗り継ぎの関係で、ちょっと怠けて新大阪から阪急の最寄駅まで乗り継いでいるととても遠回りになることを自分への言い訳にJRの『最寄駅』からタクシーで帰宅することにしました。
タクシー乗り場で-最寄駅といっても阪急の駅と違っていくばくかの距離があります。そうですね、タクシーでワンメーターではとても無理、だいたい1200円~1500円くらいのところです。-閑散としたタクシー乗り場で退屈そうに待ち受けていたタクシーに乗り、
「どこどこの方向まで・・ああ行って、こう行ってね、国道171号に向かって行ってください。それで、国道まで行かずに、国道の寸前に左手にダイエーがあるので、その手前を左折してください、ええ、近くまで行ってダイエーが見えきたらまた言いますから。」
と普段どおり澱みなく行き先を説明して、運転手さんが、
「はいはい。」
と了解するのを聞き終えてしばらく無言で車中の人になりました。別に問題はないです。難しい道でもないし。 しばらくすると予定通り、目指すダイエーが見えてきました。
「あ、あれです、あのダイエーのね、すぐ手前の小さい道を左折して・・・そうそう、この信号です、ここ左折。」
「はい、はい、ここ左折ね、」
「それで、ここを道なりに右折して・・・」
「はい、ここ右折、」
「で、まっすぐ行って、はい!ここ、ここで止めてください。」
僕はつつがなく社宅の門の前までタクシーを誘導しました。タクシーは止まりました、あとは支払いをするだけです。
普通です。
ところがその時、それまで殆ど無駄口を聞かなかった運転手さんが、急に勢いづいて
「ああ、おたく、ここんかたでっか!」
と、弾かれたように言い放ちました。
「え?あ、はあ・・。」
「それやったらそうと、最初からXX会社の何々社宅、言われたらよろしかったのに。」
おお、わが社も捨てたもんじゃないです。
「御存じでしたか?」
「ええ、わてらの間では有名でっせ。」
なぜかハイテンションで、片頬に笑みなどたたえつつ、運転手さんは言われました。
いやあ、ますますくすぐったいですなあ、JRに限った最寄駅とはいえ、それなりの距離がある駅のタクシー運転手の、それも皆さんにご昵懇とは。
プライドをくすぐられた僕はにこにこして、頭なんぞをなど掻きながらお札を財布から差し出しました。
運転手さんの妙なテンションの高さも気のせいか心地よく響きます。
「ひとりいますねん、ここの社宅に。わてらに代金投げてよこすんが。」
がつーん。
えええ!『ゆうめい』ってそういう方角の、かよ!!!
僕がお金を手にした状態で(念の為、言っておきますけど、その『運転手さんの間で有名な客』は僕ではありませんので、もちろん、そのお金は『手渡そうとして持っていた』んであって間違っても『投げようとして持っていた』わけではありません。)車内の雰囲気は一変し、すなわち文字通り主客転倒してしまいました。
運転手さんはなんだか得意気です。僕はなぜか固まってます。
運転手さんの言葉にあった妙なハリは『かつて僕と同じ会社の人間にお金を投げつけられた』経験からくる『恨み節』という旋律によって奏でられていたんですね。道理で到着した途端にいきなり、口調がクレシェンドしちゃうわけです。
ええ!、そんな『江戸の敵を長崎で討つ』みたいなことされても、、いやこういう場合は『坊主憎けりゃ袈裟まで』かな、違うか?とにかく、そんなご無体なご発言を、と思いつつもこっちは妙に恐縮してしまい、かたあく、かたあく、なってしまいました。
僕はその一言を境にそれこそ江戸時代のからくり人形みたいにカクカクとした動きで、そうですね、まるでお布施をお坊さんに渡すかの如くぎこちなく、極力粗相のないように、馬鹿丁寧に支払いを済ませました。まるで何かうしろめたいことでもある人かのように。
ああ、びっくりした。
一体誰だろう・・・・?しかも運転手さんの口ぶりからするに、『お金を投げつけた』のはどうも複数回の可能性が高いです。
以後、僕はその駅からタクシーで帰るときはなんだか必要以上に緊張するようになってしまいました。
結局その『有名でっせ』さんは同じ会社のどなたかはわかりませんでした。けど、-これはたぶんに僕の希望的推測であることをあらかじめ認めざるを得ませんが。-、その人は僕の会社の社風を纏ったせいでそうなったんじゃなくて、どこの組織にもよくいる『会社(≒組織)内での地位があがっていくに従って自分の人間としての品位も価値も高くなったと錯覚している人』だと、僕は愚考します。
僕は、そういうのはまずないですね、だって、当時も今もヒラ社員だから、幸か不幸か、そういう錯覚を起こす環境からは自由なものなので、ええ。
いずれにせよ、とんだとばっちり、でした。
ええと、今回初めて僕がヒラ社員だということを告白したこと、には特に深い意味はないです。
====終わり===
さい君の日本語レッスンのお話の続きです。
最近、レッスンのあとにレッスン仲間とお茶などしてくるようになりました。先日もイトーヨーカドーのフードコートで、中国人のシュウリンさん、タイ人のアオイさん(アオーイソラ、ノ、アオイさん、ですね)、さい君、の女性三人で、お茶をしたそうです。
ところで、この三人の語学程度を整理しておくと、
シュウリンさん 母国語以外は、日本語は片言、英語はできない。
アオイさん 母国語以外は、日本語片言、英語も片言。
さい君 母国語以外は、英語ができて、中国語片言、日本語少々。
という感じです。
したがって、この三人がおしゃべりするときの共通言語は日本語になるんですけど、話しが混乱したときの主たる収集者はさい君になってしまうんだそうです。なぜなら、
①さい君が三人の中で『相対的に』一番日本語がうまい。
②場合によってはシュウリンさんとさい君で中国語で会話する手もある。
だから、だそうです。
その日、三人でお茶を飲んでいて、さい君がドーナツと飲み物を買いにほんの数分席をはずしたときのことです。
さい君がいない間、シュウリンさんとアオイさんは、
「はい、ワタシ、アサ、ムスコ、バス、バイバイ、キュウジ、はい。」
(アオーイソラノ、アオイさん、は、日本語で会話をするときに頻繁に、『ハイ』と合いの手のようにいれるのが癖です。)
「オー、ソウデスカ」
という感じで会話をしてました。
ところがさい君がほんの少しだけ、席を空けて戻ってきたら話がすごく混乱していました。
どういうふうに混乱していたかというと二人の主たる話題が、
「ディズニーロンドンへ、行く。」
という壮大なことになっていたんだそうです。
実のところこの話を僕がさい君から聞いたとき、僕は思わずここで、
「なんだって?」
と口を挟まずにはいられませんでした。だって、あんまりにも話題の出現の仕方が唐突過ぎるじゃないですか。いきなり『ディズニーロンドン』なんて。そのうえに、誰がいつ行くのかも言及されないで、いきなりこれがでてきちゃったんです。
「そうなの、私もびっくり。」
とドーナツを買ってきたさい君は大いに驚いたそうです。
それで、へえ、いったい、いつ誰がディズニーロンドンへ行くのか、とさい君は興味を掻き立てられながら座りなおすと会話に参加しました。
まず、シュウリンさん曰く、
「アオイサン、ディズニー・トウキョウ、マダ、デモ、ロンドンイキマスネ。」
とアオイさんが東京デイズ二ーランドにもまだ行ったことがないのに、いきなりディズニーロンドンデビューをするらしい、コノヒトスゴイ、とさい君に説明したそうです。
ところがこれを聞いたアオイさんは、
「はい、ワタシ、シュジン、オカネ、ナイ、はい、ディズニー、ダメ、はい、ロンドン、ダメ、はい。」
と言い
「はい、シュウリンサン、イキマス、デイズニーロンドン、はい。」
と『シュウリンさんがディズニーロンドンに今度いくらしい、私は東京ディズニーランドでさえ行ったことがないし、ましてやディズニーロンドンなんてお金がないから無理だ、すごい、はい。』と主張し、二人の理解は真っ向から対立しました。
そこで、さい君が日本語だの中国語だのを駆使して事態を紐解いたところ、実は、
『シュウリンさんが今度東京デイズニーランドへ遊びに行く、ほうなるほど、アオイさんはせっかく日本にいるのに東京デイズニーランドにはまだ行ったことはない、ハイ。』
というだけの会話だったんだそうです。
ところがどこからか、
『でいずにーらんど』
という日本語が二人の間で、どちらかかの耳の中で
↓
『でいずにーらんどん』
↓
『でいずにーろんどん』
とほんのわずかの間に外国人同士だけあってか、数千キロもの距離を飛躍し化けてしまい、お互いにそれを言い出したのは相手だ、相手はどうもデイズニー・ロンドンへいくらしい、スゴイ、という理解になっていたんですね。
ドーナツを買って帰ってきたさい君がその話を収集して結局、三人でなんだそうか、って笑いあって済んだらしんですけど、
さい君曰く、
「よく考えたらデイズニーランドってパリにはあるけど、ロンドンにはないわよね?」
って言ってました。
そうですよ、『ろんどん、ろんどん』言ってイトーヨーカドーの地下で地球を半周する前に三人とも早く気付きなさい。
でもよくこれくらいのコミュニケーション能力でお茶なんかしに行くなあ、国際摩擦なんか起こしたらどうするんだろって僕なんか心底感心しちゃいます。まあ、他人事だし、それになんだか愉快だから別に悪くはないですけど。実際ロンドンにディズニ-ランドン、じゃなかったディズニーランドがあったらどうなんだろう、って想像もできちゃいますし。
やっぱりイギリス人はスノッブだからあまり繫盛しないのかなあ、なんてね、はい。
===終わり===
最近何に驚いたといって、9歳の息子からいきなり小声で、
「男同士の話がある。」
と言われたことほどどきっとしたことはありません。
何の前ぶれもなく、家でごろごろしていたとき(だいたいごろごろしてます)、さい君と僕の距離が離れたのを見計らったように急に真顔でいわれました。
僕は咄嗟に、電流で体を貫かれたように、
「は!これは『男親』としてのデビュー戦だ!」
と思いました。
だってそうじゃないですか、男の子が母親がそばにいるのに僕に『男同士の話がある』って言うなんて母親には期待できない、同姓であるという共通項を頼みにしているに決まっています。普通の相談と明らかにその趣を異にしているじゃないですか。自分の経験に照らしてもゆくゆくはそういう日が来るだろうとなんとなくは思っていましたが、まさか本当に、しかも唐突にくるとは、と、やや狼狽しました。なぜなら、いざ、となるとくるべきものがきた、と思いつつ、一方で実際にはまるで心準備ができていないことに愕然としたからです。
果たして息子の期待に応えられるだろうか?もしデビュー戦で役に立たなかったら、彼を孤独にしてしまうだけではなく、父親としての威厳がはやくも地に落ちてしまうではないですか、・・・。不安でいっぱいです。
さらに、その相談内容に思いを馳せていろいろと予想しはじめました。さては、まさか、いやありうる、こいつ『性に目覚めた』か・・・9歳という年齢、しかも普段の言動からすると、まだ早いような気もするけどもう4年生だからな、多少早いが目覚めはじめる子がいてもおかしくはない、俺もたしか『自分は女のひとの裸ばっかり想像していて頭がおかしいのではないか』と悩んだことがあったな・・・、いや待て、性的に目覚めるっていってもマジョリテイとは限らんな、女の人ではなくて・・・・いや人間相手ならまだしも、犬や猫に・・・、いやいやあるいは、動物ならまだしも、自転車や石に性的興味を感じる、なんていわれたら・・・そういう場合はどうすれば対処すればいいのだ?
あるいは初恋か!ありうる、勉強が手につかない、とか、うううん、ちょっと俺よりは早いけどありうるな、まあ初恋なんてものは本当は実らないからいいものなんだけど、そんなことを言ってしまっては身も蓋もないな・・・・。
僕の頭の中はデビュー戦に臨んでの準備不足からくる不安、とまだ見ぬ妄想からまがまがしく凶暴となった対戦相手のことで、いっぱいになりました。
ところが、一向に息子から切り出す様子がありません。
これはどうしたことか、我慢できなくなった僕はふたりっきりになった頃をみはからって、
「おい、さっきの話なんだけど。」
と切り出しました、すると息子は思いつめたような表情で、無言で僕を、洗面所=脱衣所に連れていきました。
脱衣所??え、こういうのって普通子供部屋とかでは?なんで脱衣所?やや、ということは、『なんとか性徴』ってやつか、これは『フジのとパパのと見比べたい』なんて言い出すのかなのな?・・・・でもいつも一緒に風呂に入っているし、普段風呂上りに全裸でコロコロコミックを読み始めて母親に
「早く服を着なさい!」
って叱られているくらい、そういう面での恥じらいはまだ全然感じられないんだけど。
「あのね、」
思いつめています。
「ママに聞かれるとやっかいだからさ。」
おおそうか、そうか、なんかやっぱり頼りにされてるぞ。
「恥ずかしい話なんだけど、恥ずかしい話だんだけど。」
息子は繰り返して言いました。
おお、きた、これはやはり性の目覚め!
「うん、どうした?」
いやいや恥ずかしくなんかないぞ、パパだって女の人の裸ばっかし想像してだな、とおっとこれはまだ言うまい・・。
「あのさ、一学期からほとんど話しもしたことのない、同じクラスの木下真由って女の子がいるんだけどお、」
うおおお、そっちかい、初恋か!
ははん、さては話もあまりしたことがないのに、なぜか気になってしょうがない、という自分が経験する始めての感情に戸惑っているんだな、こいつもなんだかんだいって成長したなあ、と僕は石や自転車に性的興味を感じる、というような話ではなかったことに安堵しつつ、我が子の成長に多少の感慨を感じながら話を聞いていおました。
「うん、それで?」
「その子がさ、」
「うん。」
「休み時間とかにい、」
「うん。」
なんかいいです、わくわくします。
「気がついたらフジの後ろをつけてきたり、」
「え?」
「あとひどいときは後ろからいきなりフジのおなかをくすぐったりすんだよ。」
ちょっと初恋の悩みとは違うかな?うむむ、それでお前はどう思っているわけ?
「それでね、」
「うん。」
「それを見た西村が、」
え?西村くん???
「う、うん?」
「『ええ!ラブラブ!』って言うの。」
・・・・・・・。
「ふん、それで?」
「フジはいやなんだよ!西村にラブラブってからかわれるのが!ぜったいにいやなの!」
息子は少々肩透かしを食らってかえって戸惑っている僕に、なんで、わかんないかなあ、と苛立ちながら言いました。
息子の相談の要旨は『西村にからかわれていることはたいへんなストレスである』という一点に尽きているんですね。
西村くんというのは(西村君ごめんなさい)、いつも息子から聞いてるところによると、なかなかのブルジョアジーで、その財力にものをいわせて学校のお友達に、『いらないから』とか言って、カブムシを盛大にばら撒いたりしていて、そのため小さからぬ勢力を形成しており、その領袖におさまっている同じクラスの男の子です。
息子はとにかく、このプチ・ブルのクラスメートにからかわれることを避けたくて、僕に相談した、とうのが実情だったんですね。どうも、息子のいう『男同士』、というのは、『クラスの男の子との人間関係あるいは力関係をどうマネージすべきか』という面においての『男同士』であったわけです。
おい、おまえ、男同士の話って、そういう意味かよ。なんだつまんない、僕は拍子ぬけしてしまい、あまりのことに、
「そうか、その木下真由っていう女の子はフジのことが好きなんじゃないか?」
とさしあたりのないことを、つい呟いてしまいました。すると息子はいきなり大きな声で、
「やめて!それだけは困るんだよ!」
いや俺にやめてとか、いわれても・・・
「なんで!?」
「だって、もしそうだったら、フジはこれからもずーっと西村にラブラブってからかわれるってことじゃない!それはいやなんだよ!ねえ、パパどうしたらいい?」
あのなあ、おまえな、若い、いや、この場合は違うな、ええと、とにかく『女の子』が後ろをついて来てくれるなんて、人生でそう何回もあることじゃないんだぞ、わかってないなあ、親としては木下さんにお礼をいいたいくらいです。
そのうちにだな、追跡されたいなあ、と思ったとしても、そう簡単に女の子は『追跡』してくれないぞ、いやいや簡単どころか、例え財産をつぎこんだとしてもしてくれない時はしてくれないんである、なんてことが人生の現実だというのに・・・・
「だったらさ、やめて、って静かにいえばいいじゃん。」
もったいないなあ、と思いつつ僕がいうと、
「もう言ったよ!」
「それで?」
「でもニコニコしてなんにもいわないで、まだ続けてくる。」
ああ、木下さんに土下座してお礼をいいたいくらい、です。
なんということでしょう。これといった取り柄のない息子に好意をもってくれたのみならず、それを表にだして行動に移してくれたうえに、息子がつれなくしたのに、それにもめげずに笑顔でまだ気持ちをしめしてくれるなんて!!
結局のところ、
「うん、わかってくれるまで、やめて、って言えば。」
ってことで『男同士の話』デビュー戦は、僕にいわせると竜頭蛇尾、あるいは大山鳴動して鼠一匹、という風情で終わりました。
それは、息子にとってはのっぴきならない事態なんでしょうけどね。
その後、少し気になって経過をきいてみると、木下さんは以前ほどではないにせよ、まだ息子に好意からちょかいを出してくれているようですが、プチ・ブル西村君からのからかいはなくなった、とかで、息子のストレスはなくなった(何度も言いますけど、息子は木下さんの好意とその行動、に戸惑っているのではなく、西村くんからの冷やかし、を避けたい一身ですので)ようです。わかってないですよね、重ねてもったいない。
まあ、そのうちこのことのありがたさやもったいなさがわかるでしょうけど、その頃になってあれは惜しかったなんて思っても遅いんであります。
それから木下真由ちゃん、ありがとうございます。この場を借りまして親としてお礼を申し上げます。
でも、なんであの相談は脱衣所で、だったんでしょうか、どうもいまでもわかんないです。
謎です。
===終わり===
僕のさい君は(彼女は日本語の読み書きが殆どできなくて、僕のブログにも興味すらもっていないので-興味どころか理解もないです、とほ・・。-、じゃんじゃん書いちゃうんだけど)、科学方面と地理方面に、それはそれは、たいそう暗いです。
原因はよくわかりません。
そもそも、人間の男性と女性は、その脳の構造がフィジカルに違う生き物だ、という話を何かで読んだ記憶がありますが、僕は今のところさい君以外の他人の女性と同居したことがないので、この惨状は男女の脳の構造の差がなせるものなのか、彼女の嗜好の問題なのか、はたまた、さい君の受けた教育に原因があるのか、はよくわかりません(さい君の言わせると、主たる原因は教育環境の差、もっとはっきりいうと『教育内容を管轄している政府に問題がある』そうですけど・・。)。
でも、さい君は一応、大学教育まで履修しているし、世の中に出て貿易の仕事をした経験も少なからずあるのに、
「ギリシャってアフリカ?」
だの、
「ギリシャってイスラム教よね、たしか。」
とか、
「ローマって国の名前なの?」
なんて、ちょっとひどいんじゃないか(ご参考までに、さい君は自称『熱心なプロテスタント』です。)、と思うようなことを平気で言い放ちます。
まあ、夫婦なので、最近は結婚当初に比べて、あまりいちいちは驚かなくなってきましたけど、先日、久しぶりになんの予兆もなく、『超』のつく大物がかかってきました。
僕らはそのとき、もう寝る準備をして布団の中にいて、すでに寝息をたてている息子を間にして、お互い天井を見ながら、寝る前のつかの間、さしたる話題があるわけでもなく、ただなんとなくおしゃべりをしていました。
なんでそういう話題になったのかすら定かではない些細な会話だったはずなんですけど、さい君がいきなりこういったんです。
「ほら、数年間に消えた惑星、ええとなんだっけ、ほら、本当になくなちゃった惑星、火星だっけ?」
「ええ!」
僕は寝床から飛び上がらんばかりに驚きました。だって、僕の理解では火星は無くなっていないし、実際に『火星が消えた』なんてことになったら、のんびり寝床で世間話なんかしてる場合じゃない、と思ったからなんです。
「おい、何いってるんだよ?火星、消えてないぞ。」
「あら、そう・・・。じゃあ、火星じゃなかったかしら、とにかく、本当になくなっちゃった近くの惑星があったじゃない?」
「・・・・・。」
皆目わかりません。
何度も言うように僕らの会話は、さい君の国の母国語なので、これはひょっとしたら僕の語学力の貧弱さのなせるわざで、さい君の言っていることは正しくて僕がなにか大きな誤解をしているのかしらん、と思い、いろんな角度からさい君のいわんとしていることを検証してみましたが、たしかにさい君は『2,3年前にある惑星が無くなった』という主張をしています。
僕はこれを『単なる夫婦の世間話』として放擲しておくことにはあまりにも納得がいかないので、食い下がってさらに会話を掘り下げてみました。
すると、さんざんコミュニケーションを重ねた挙句、どうもさい君のいっているのは『火星』ではなくて『冥王星』であるらしい、ということがわかってきました。
さらに解明を試みてみると、さい君は『冥王星が消えた』と確かに思い込んでいますが、それは冥王星が数年前に科学会において、『惑星の定義から外れた』ことを誤解している、ということがわかりました。
太陽系が安泰でよかったです。
それにしてもさい君の頭の中っていったいどうなっているんでしょうか?
『太陽系惑星直列』、でさえ世の中には大騒ぎする御仁が少なからずいた、というのに、惑星のひとつ、それも地球のお隣の火星が消滅したりなんかしたら太陽系には大きな影響があるどころではない、という想像力が働かないのかしらん?
曰く、『学生時代は数学が得意だった』らしいけど、理数系知識方面全般に圧倒的なコンプレックスを感じている僕でさえ、さい君の『科学方面、地理方面の脳内宇宙図』の深遠さの前には脱帽せざるをえません。
ただし、そうは言いつつも、僕は実際にギリシャについては机上の知識しかないし(ましてや冥王星になんか行ったことはありません。)、知識を盲信して自分の目で見てもいないことの可能性を全て頭ごなしに否定するのも、ある意味非科学的だな、とも思います。
それに、そう考えたおかげで(もちろん、さい君はそんなことは100%意図してないでしょうけど。)なんとなく、『ローマを見て死ね。』なんてよく言ったもんだな、俺はなんだかんだ言ってローマを見たことが無いから少なくとも『ローマは国名じゃない』とは断言できるけど、『実在するその美しさを語る資格』においてはさい君となんら変わりはないわけだ、と妙に哲学的に反芻しちゃったりもしました。
冥王星だって行ってみたら、実際無かったりしてね・・。
でも『自分の伴侶の発言』としては『こないださ、太陽系の惑星が消滅したじゃん?』という壮大な気安さには、やっぱり、呆然としてしまいます。
ま、さい君がその頭の中の太陽系から火星、and/or、冥王星を消滅せしめていたこと、で『冥王星』という単語の英文訳を覚える機会が得られて良かったですけどね。
冥王星は英語で、
『Pluto』
と、いうそうです。
===終わり===
僕には『人としてどうかと思われる癖や習慣』が何個もありますけど、そのうちのひとつで、最近妙に熱いのは『夜中におきてどか食いをする』というものです。
願わくば撲滅したい習慣です。
なぜか毎晩のように、夜中の3時か4時くらいに起きてしまい、それでトイレにでも行っておとなしくもう一度寝ればいいんですけど、これがどうもそううまくいかないんですね。猛烈な空腹を感じて、半分覚醒していない状態のままで、ソファに寝転がってジャンクフードなどをどか食いしちゃうんです。これがまたどうもものすごい快感を伴うみたいで、毎晩『今日はやめよう』と思っても抑えが効かずに同じことを続けてしまっています。
それで、じゃあ夜中に起きてどか食いをしたら何かいいことがあるのか、というとこれは経験されている方にはお分かりと思いますが、見事になあんにも、ありません。だいたいが食べたらまたそのまま寝てしまうので、体重増加の原因にもなるし、そもそも、頭とは反対にどか食いしたときから内臓は仕事を始めちゃうので、最終的に朝会社に行くために起きたときの体調は、甚だしく好ましいものではありません。
なんだか胃がもたれて、妙な疲労感があって、寝起きが全然すっきりしません。
ある朝、会社に行くために7時ごろ目覚めると、例によってその数時間前のどか食いのせいで、気分は最悪でした。
ところで、僕があまた持ち合わせている『人としてどうかと思われる癖や習慣』のひとつに『すぐ大仰に弱音を吐く』というのがあります。これも是非撲滅したいです。
でもなかなか撲滅できません。
その朝も、どか食いからくる気分の悪さと自戒の念から、
「ああ・・ちくしょう・・もう駄目だああっ!」
と寝起きざま寝床でたいそうネガティブに叫んでしまいました。
すると、だしぬけにです。ああいうのをまさに間髪を入れず、と言うんでしょう、いきなり、
「駄目じゃなあいっ!」
と高圧的に大きな声で喝破されてしまいました。僕は一瞬呆然としました。
一体全体どこの誰が、こんな素早いポジティブな反応を・・・?
僕の出した結論は、ははん、さては俺はまだ半分寝ていて、実際に叫んではみたものの、夢の中で、誰かに恫喝されたな、というものでした。
いや、いかんいかん、ちゃんと起きなければと、確認と自分への叱責を兼ねて、僕はもう一度、
「もう、駄目だああっ!」
と叫んでみました。
するとどうでしょう、今回はあきらかにうつつのなかで、叫んだという確信があったのに、これまた条件反射のような早さで、
「駄目じゃなあいっ!」
と再び後ろ向きな言動を啓蒙するかのように一喝されたんです。
僕は、あれ?と思いあたりを見渡してみましたが、そこには同じ布団でまだ寝ているさい君と、テレビの子供向け早朝番組を見ながらにこにこしている9歳の息子(この男はもう9歳なのに、いまだにひとりで寝ることを拒んで川の字の真ん中になって僕ら夫婦の間に寝ています。)しかいません。
あれ・・・?まさか・・・。僕は信じられませんでしたが、この人しかいないな、と思い、息子に、
「・・・駄目、じゃないか?」
と、面と向かって尋ねると、あにはからんや、
「パパ、駄目じゃないよ!」
と、にこにこしながら彼が返答しました。
そうだったんです、僕と僕の発言を間髪も入れずに朝からポジティブに喝破したのは愚息だったのです。
こいつ、いつのまにこんな大人びた言動を、しかも朝の寝床などという頭の働かない状況で・・・・・。
うん、でも、そう言われてみると、そうだな、夜中にどか食いしたくらいで、『もう駄目だ』なんて絶望して言ったりしては、ばちが当たるよな・・・。
今回は息子に教えられました。
ただし、こういう大人びたことを言いつつ、一方で、
「パパ、ことしって、たしかうしみつどきだったよね。」
と真剣に『閏年』のことを言い間違えたりするのが、この男の真骨頂、なんですけどね。
===終わり===
さい君がまた日本語のレッスンに通い始めました。
今度のクラスには、アメリカ人、ヴェトナム人、インドネシア人、中国人、ポーランド人、タイ人、ルーマニア人などが生徒としています。さい君の話では、今回のクラスは生徒の殆どが日本での滞在の日浅く、さい君の言葉を借りると『私が一番日本語がうまいくらい』だそうです。そうはいっても全員が英語ができるわけでもないのでやはり、共通のコミュニケーションツールは勢い日本語になるわけです。
先日、さい君がタイから来た女性生徒に名前を尋ねました。
「アア、アナタノ、オナマエワ、ナンデスカ?」
「アア、ワタシノナマエワ、アオイ、デス。」
本名が『アオイ』さん、なのか、日本人であるご主人の姓を名乗られたのか、定かではありませんが、アオイさんはそう返答されました。そこでさい君は、
「オオ、アオイ、デスカ?『アオイソラ』、ノ『アオイ』デスネ。」
と応対しました。
アオイさんは一瞬ぽかんとして訳がわかんなかったようなので、さい君は、大仰に上を見上げなら両手を大きくかざして、『アオイ』を強調しながら再度言いました。
「アオーイ、ソラ!ノ、アオイデスネ。アオーイソラ!」
すると、タイ人のアオイさんはようやくわかったようで、
「・・ア、ソウデス。アオーイ、ソラ、ノ、アオイデス」
とさい君と同じように上を仰いで両手を広げて言いました。それで、ひとしきり、相対したふたりが、同じような仕草をしながら、
アオイさん 「アオーイ、ソラ!」
さい君 「アオーイ、ソラ!」
アオイさん 「アハハ、アオーイ、ソラ!」
さい君 「アハハ、アオーイ、ソラ!」
と、にこにこしつつ確認しあったそうです。
さらに後日授業が終わると、シュウリンさんという、さい君とはすでに顔見知りになっている中国人の女性が、アオイさんのところに紙と筆記用具をもって、
「アア・・アナタノ、オナマエワ、ナンデスカ?」
と尋ねにいきました。そこでアオイさんは、ここぞとばかりに、両腕を大きく広げて、
「ワタシノナマエワ、アオイ、デス、アオーイ、ソラ!ノ、アオイ!」
とやりました。
しかし、シュウリンさんにはうまく伝わらなくて、また
「エ?アア、アナタノ、オナマエワ、ナンデスカ?」
と聞きます。それで、
シュウリンさん 「アア、アナタノオナマエワナンデスカ?」
アオイさん 「ワタシノナマエワ、アオイデス、アオーイ、ソラ!ノ、アオイデスネ!」
という会話がなんども繰り返されました。さい君は少し離れたところでこの顛末を見ていましたが、そのうちに、一所懸命に名前を伺うシュウリンさんに対して、今や、両腕を振り回しながら『アオーイ、ソラ!』を連発するアオイさんと目が合ったそうです。そしたらアオイさんが両腕を全開しながら、あなたに教えてもらったやり方で、自己紹介をしていますよ、といわんばかりにさい君に笑いかけました。さい君も好意をもって笑い返したそうです。
アオイさん 「ワタシノ・・アオーイ、ソラ!ノ、アオイ・・アハハハ!」
さい君 「アハハハハ!」
しばらくその会話が繰り返された後、ようやく事態を察したのか、シュウリンさんも一緒に笑い始めました。こうして上を見て両腕を何度もぐるんぐるんぶん回すアオイさんを中心に、
アオイさん 「アオーイ、ソラ!ノ、アオイ・・アハハ!」
さい君 「アハハハ!」
シュウリンさん 「アハハハ!」
という三カ国間での国際交流が成り立ったわけです。こういうのは微笑ましくて、いいです。ええと、本人たちは真剣だし、もちろん、逆の立場にたったら僕らも外国語を話すときにはいろいろやらかしているでしょうから、これは、無知を笑おう、というものではないです。純粋に、言葉ではなくて、こういうツールが限られた中でのコミュニケーションって、『国境』なんてものは微塵も感じられなくて、なんだか、たいへん、結構です。
ちなみにこの会話は、下記のように続いたそうです。
アオイさん 「アオーイ、ソラ、ノ、アオイ!アハハ!アオーイ、ソラ!」
さい君 「アハハハ!」
シュウリンさん 「アハハハ!」
アオイさん 「アオーイ、ソラ!アハハ!」
さい君 「アハハ!」
シュウリンさん 「アハハ!・・エ、アナタノ、オナマエワ、ナンデスカ?」
・・・シュウリンさんは、なんでアオイさんとさい君が笑い合っているのか、はもちろん、アオイさんの言っていることも皆目わからずに、『なんだかおかしいから取り合えず一緒に笑っていた』んですね。
これはこれで、また、悪くない話であります。
===終わり===