スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

暴力脱獄。

 今回は映画に絡むお話なので、粗筋を知りたくない方はご注意ください。

 『暴力脱獄』(原題『Cool Hand Luke』)というポール・ニューマン主演の古い映画があります。
 今回このブログを書くにあたって調べてみたら、1967年製作のものでした。
 僕は、この映画をたまたまテレビ放送で見ました。まだ中学生か、或いは高校生だったような気がします。
 筆者は、ブログを書くために再度映画を観直したりするような律儀な性格でもないので、記憶の範囲と今回調べた範囲でざっと、粗筋を書くと、ポール・ニューマン演じる主人公が微罪で服役します。そこには、邪悪で専横的な刑務所長が彼を待っていたのですが、主人公はまるで憑かれたように何度も脱獄を繰り返す、という話です(だったと思います。)。
 『何度も脱獄を繰り返す』ということは、別の言い方をすると、ポール・ニューマンは、つまり毎度捕まっちゃうわけです。それで、その度に所長から懲罰を食らうんですけど、何回目かの脱獄の失敗後に所長から、
 「これからは俺の忠実な下僕になると誓え。誓ったら許してやる。」
 とかなんとかいわれて、罰を与えられますが、僕は子供心にそのシーンに、たまらんなあ、これはきついなあ、と心底感情移入してしまい、その後この映画を見る機会はなかったにもかかわらず、この場面は未だに僕の記憶から離れません。

 以下、僕の記憶の範囲です。

 所長が、脱獄から捕まえたポール・ニューマンに服従を強要します。
 「これから俺の言うことを忠実に聞け。」
 しかし、主人公はこれを拒否します。
 すると、所長は命じます。
 「罰だ。『いい』というまで刑務所の庭に穴を掘れ。」
 所長は、部下に監視を任せ、一旦その場を去ります。ポール・ニューマンは黙々と穴を掘ります。
 そして、とうに主人公が隠れるくらい深く穴を掘ったころに、所長が現れて言います。
 「俺に服従するか?」
 主人公は従いません。
 「ほう、ところで、おまえ何をしてるんだ?」
 「命令で刑務所の庭に穴を掘っています。」
 「穴だと?こんなところに穴があったら邪魔だろう。埋めろ。」
 ポール・ニューマンは今度は、山盛りの土をスコップで掬い、穴を埋め始めます。
 そして、ほぼ穴が塞がった頃、また所長がやって来て服従を求めます。主人公は頑迷に拒否します。すると、またしても所長は言います。
 「おい、何をしている。」
 すでに、疲労困憊しているポール・ニューマンは、息も絶え絶えに、しかし、淡々と返答します。
 「所長の命令で、穴を埋めています。」
 「そんなこと誰が言った?俺は穴を掘れと言ったはずだ。穴を掘れ。」
 こうして、再び主人公は穴を掘り始め・・・・・・、という作業を他の受刑者が黙って見守る中、炎天下から日が暮れて真っ暗になるまで、延々と繰り返します。 
 僕は、その場面に、
 「うわあ、こんな仕打ちをされたら、ちょっと耐えられんなあ。苦しいだろうなあ。」
 と思わず、気持ちが入りました。
 未だに、このシーンを思い出すと、なんだかブルーな気分になるくらいです。

 僕は、そのとき、なんでこのシーンが、つまり、例えば痛みを伴う拷問シーンでもないのに、未成年であった僕の心に焼きついて離れないのだろう、と考えてみました。
 そして、僕が辿りついた結論を簡単に述べると、何故、この穴掘りの繰り返しがしんどいのか、という理由は、下記の二点です。

 ①『終わり』が見えない。
   -『服従する』というまでやらされるわけですから、服従するつもりのない主人公には、この作業の終わりが見えないわけです。そして、ゴールが不確かなことは精神的にとてもつらいことです。

 ②やっていることに『意義』がない。
   -命じられて穴を掘ったにも関わらず、『邪魔だ。埋めろ。』と一言でそれまでの労苦を否定され、穴を埋め、再度掘る、という作業は『なにも生み出さない』んですね。ただ、単に単純労働である、というだけではなく、『生産性がゼロである』と知らしめられながらやる力仕事、これもきついです。

 自分の背丈くらいの深さにひとりで手作業で、穴を掘って、埋めて、また掘る、というのはもちろん、肉体的にもかなりしんどいですが、実はこの『拷問』の本当の恐ろしさは、上述の二点のように人を精神的に追い詰める、というところにあったわけです。
 
 今回、僕は、この二点でも、特に②の『やっていることに意義がない』ということのつらさに着目したいと思います。

 例えば、肉体的につらい負荷でも、その対象が運動部の選手で『このことによって、俺はよりうまくなる』と思えば我慢できますよね。
 同じ『50メートルダッシュを20本』でも、そのことに『意義』を見出だすか否かによって、この作業が『納得してする実のある練習』にも、『精神的な拷問』にもなり得るわけです。もしこの内容を、運動選手でもなんでもない一介の中年サラリーマンに、突如目的も意義もなくただ強要したりすれば、それはまさに肉体的のみならず、精神的にも『拷問』以外の何物でもありません。
 僕は、中学のときは柔道部で、高校ではラグビー部だったので(どちらも戦績のほうはぱっとしませんでしたが。)、ポール・ニューマンの作業を自分の部活動での練習になぞらえてみて『やってもやっても何の得にもならない単純できつい練習』を想像して『うわ、これは、たまらん、勘弁してほしい。』と思ったわけです。
 ポール・ニューマンのやらされた穴堀り、穴埋めは、社会的に無意味だっただけではなく、まさに彼個人にとっても何の意義も見出せない作業だったんです。

 そして、『やっていることに意義を見出せないから辛い』ということは、逆に言えば『意義さえ見出されれば人は多少のことにも耐え得る』となります。
 もっといえば、それは、意識的な、あるいはときには無意識な、錯覚でもいいわけです。例えば『今やってることは単純作業でつらいけど、将来のために身につけておかねばならないことだ』と自分の精神を『うまく騙す』ことができれば、耐え忍ぶことができる、というように、です。
 そして、こういうことは案外日常にも転がっていて、人は、結構『目の前の肉体的苦痛』を『意義あるものと定義すること』によって、精神的負担を軽減しながら日々を生きているんではないでしょうか?
 我が家の日常においてもそのことは例外ではなく、例えばさい君の毎日のように繰り出される長い長い長い、内容の薄い話を、『うむ、これは外国語のヒヤリングの勉強と思おう』と夫が捉えて無理矢理『意義を見出す』ことによって、今のところ家内安全が保たれております。

 でも、思うんです。
 あれ?俺が会社という所で全然ぱっとしないのは、そもそも能力がない、だけではなくて、ひょっとして若くして『暴力脱獄』のワンシーンから先述のような教訓を学んだおかげで、『膨大な時間と肉体を会社に捧げているけれど、その目的である営利追求はたいへん有意義なことであり、そのためのいろいろな犠牲にはそれぞれ意味があるのだ』という『日々の労働を能動的にこなすための大前提』について、『営利追求が有意義だなんて、実はまったくのまやかしなんだよ~~~~ん』と、早くからうすうす気付いてしまったから、なのではなかろうか、と。
 すなわち、そうですね、いわば『経営理念や予算達成という壮大なドグマによる従業員の錯覚の誘引』というからくりを知ってしまい、その結果どうも最近(最近といっても、もう、かれこれこのウン十数年になりますけど。)『どうせ、錯覚ですからね。』と『自分のやっていることにいまひとつ価値を感じない』ために毎日の眼前の仕事に身が入らなくなってしまったからではないか、と・・・。
 うむむむ、我ながら失敬な社員ではあります。

 尚、映画では、ポール・ニューマンはこの穴掘りの責め苦に耐えかねて、とうとう所長の命令を受け入れ、その後、忠実な下僕となり、その代償として、それまであった受刑者仲間からの尊敬を一気に失います。
 しかし、それは実は所長を欺き油断させるためのかりそめの姿であり、ある日、野外作業中に野糞をするふりをして性懲りもなく脱走します。
 
 ・・・おっと、忘れるところでした。
 『営利追求という大義や会社の経営理念』に疑念をもたず、それによって日々の労働に意義を感じ、遮二無二働いておられる、あるべき姿の健全な会社員の皆さん、は、このブログは読まなかったことにしてください。
 そうしないと、今日からだし抜けに、『拷問のような日々』が始まってしまう可能性があり得ますので。

=== 終わり ===


 
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

緑 慧太

Author:緑 慧太
好きな言葉:『終身雇用』
座右の銘 :『負けるが勝ち』

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
フリーエリア
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村
フリーエリア
フリーエリア

人気ブログランキングへ
検索フォーム
リンク
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。