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中島みゆき。

 行かれた経験のある方ならおわかりになると思いますが、『サウナ』というのは殆ど苦行に近い、と言ってもいいです。僕も近所のジムのサウナによく行って『苦行』をして帰ってきます。(ところで、あの『サウナ』っていうのはそもそも体にいいものなんでしょうか?なんだか汗が盛大にでて、そのせいか妙な達成感があるから、それが癖になってつい繰り返すんですけど、かなり苦しいです。そのうえ『高血圧の方はご遠慮ください。』なんて注意書きにあるし、僕自身も実は会社の診療室の内科の香川先生-まだ若いのに、とても話をよく聞いてくれて、なおかつこっちの戯言にまでいちいち説明責任を果たそうとする、まじめな、その上にたいへんな美人の先生です。ええと、でも今回は香川先生の話ではないので、先生の説明は以上とします。-に『緑さんは尿酸値が高いのでサウナはお勧めできません。』とその美しい眉を顰めながら言われてます。理由はわかりませんが尿酸値の高い人はサウナにはいかないほうがいいそうです。でもなんか行っちゃうんですよね・・・。香川先生ごめんなさい。)

 だいたいが、サウナの中ではみなさん、苦しそうな顔で汗をだらだらっ流しながら時計と(僕の行くサウナのそれは12分計です。)睨めっこをして過ごしているし、注意書きにも『マナーを守っての入浴をお願いします。・・・・・大声での会話などはご遠慮ください・・。』ってあるし、大概の人がひとりで入っているのでみんな黙って苦行に耐えてます。僕もそのうちのひとりです。
 でも中には沈黙しての苦行に耐えられなくなって気を紛らわそうとしてか、顔見知り同士と思しき人と会話をはじめちゃったりする人がいて、その会話が聞くとはなしに聞こえてきます。

 「私ね、派遣で自動車工場で働いてましてね、」
 「ほう、そうですか。」
 「以前ね、ほら大きな自動車メーカーが品質不良で大々的なリコールをやったでしょ?」
 「ああ、ありましたね。」
 「あの時はおかげで私の勤務してるメーカーに注文が殺到しましてね、それで、工場はフル稼働でね、私らは24時間体制のスリーシフトになったんですよ。」
 「ほう。」
 「それでね、私夜勤になったんですけど・・・」
 「けど?」
 ここで派遣労働者氏は、ひと際声を潜めて(っていっても然して広くない部屋ですから丸聞こえですけど。)言いました。
 「出たんですよ!私見ちゃいまして!」
 「ええ、本当ですか?」
 「それが本当なんです。私ねそういうのはあまり得意なほうじゃないんで、すぐ人事に頼んでシフトを変えてくれって言ったら・・」
 「ふむ。」
 派遣労働者氏は汗だくになりながらも、ここでちょっと溜めを作り、続けます。
 「そしたら、なんと人事の人があっさりと『やっぱり出ましたか。』ってシフトを変えてくれたんです!」
 「へえ!」
 「なんでも出るのは一人じゃないらしいんです。噂では三人くらいでるらしいです。一人は中年の男性で、あとは・・・・」
 こういう会話は罪がなくてよろしいです。聞いているこっちもしばし苦行を忘れることができます。
 また別の方向から違う会話が聞こえてきます。
 「ワイドショーってのは本当にどの局も同じ話題ばっかし、飽きもせずによくやるねえ。」
 「ほんとうだね、わたし、三年ほどまえに入院してましてね、それで昼間やることないからテレビを見るしかないんだけど、まあ、どの局も同じで、えっと、マイクロ、マイクロ、ええと、なんだっけ・・・」
 何だろう。そんな名前が日本のワイドショーを席捲したことがあったかな?
 「とと・・マイクロ・ジャクソンか、もうあのニュースばっかりでねえ。」
 こういうのも熱さを暫時忘れさせてくれるので大いによろしい。
 しかも、サウナという文字通り一糸纏わぬ空間での面白いところは、これだけの会話を交わしているくらいだから、かなりの顔見知りだろう、と思われるこれらの二人がひと通り話を終えて、
 「あの・・・お名前伺ってもいいですか?」
 「あ、失礼しました。私XXといいます。」
 なんて自己紹介なんぞをしあっているところです。

 一方、どこにでも必要以上におしゃべり好きな御仁はいるもので、僕の行くサウナにも無聊を持て余しているだけとはとても思えない、滅多矢鱈と誰彼なく話しかけてくる御仁がいます。そういう人に限って、ジム設備なんてまったく使わずに、サウナばかり、一日に何回も、それもほぼ毎日入ってたりするので、たいてい同浴しちゃうんです。
 僕のサウナにもその種のひとで特に要注意な方が二人います。傍で聞いているのならまだしも、一度こいつは話に乗る、と思われたら最後顔を見るたびに話しかけられちゃうので、苦行を紛らわすどころか、自分のペースでサウナ浴をできなくなってしまいます。だから、僕はその二人と同浴しても、なるべく時計を見る頻度も我慢して少なくし、殆ど下を向いて、かつ、ああ苦しいいやもうサウナに耐えるだけで精一杯だ話す余裕なんてとてもないああ苦しい、という風情で眼をぎゅっと瞑って、『どうか、話しかけないでください雰囲気』を全力で出すようにしています。幸い、今までのところそのことが奏功したのかまだこの二人に捕まったことはありません。

 しかしながら、僕のこれまでの密かな観察によれば、この種の御仁たちに共通している点は、おおよそ下記の如くです。

 ①何度も同じことを言う。
 ②話しかける割には他人のいうことはあまり興味がない。
 ③少々の自己矛盾は意に介さない。
 ④自慢好き。
 ⑤同種の『御仁同士』は互いに敬意は払う。

 
 僕が注意しているその二人は、ひとりはグアム島から帰ってきた横井庄一さんに風貌が似ていて、もうひとりは俳優の田中要次さんに似てます。
 横井庄一さんは(もちろん僕が心の中でそう呼んでいるだけで、だれもそうは言ってないです。だから-そんなことでもしてくれたら僕としてはつぼにはまってとっても嬉しいから、それこそ何回でもしてほしいくらいなんですけど-間違えてもサウナ室に入るときに『恥ずかしながら帰って参りました』なんて敬礼して言ったりはしません。)年齢は70歳ちょうど、サウナ暦は50年以上、年金生活者で、趣味は酒と競馬、家族構成は奥様と猫(推定)、です。なんでそこまで詳しいのかというと、別に僕が横井さんに聞き取り調査をしたわけではなく、軍曹が誰彼かまわず大きな声でしゃべる内容からわかっちゃったんです。
 横井さんは、とにかくサウナ好きで、サウナには一家言あり、どうやらサウナに入るためだけにジムの会員になっていて、それでほぼ毎日、しかもサウナ、冷水浴、を繰り返して一日に何度も入っていると見えて、僕との遭遇頻度は非常に高いです。知り合いがいないと見受けられるときでも息をしながら『うん、うん、うん、うん、うん・・』と合いの手みたく妙な意味不明な独り言を発し、今にも誰かに話しかけそうな雰囲気を醸し出しています。

 先日も僕がサウナ室に入っていったら横井さんは今日知り合ったと思しき若者ひとりにむかっていつもの演説をぶっていました。話しかけられたほうはたいてい辟易しながらもそこは相手が年長者だし横井さんの演説を聞くのは初めてだから『そうですか』だの『へえ』だの言って律儀に相手をしています。僕は、そのつかまった人には悪いですが、お、横井庄一さんやってるな、これで今日も俺は話し相手にならなくてすむぞ、と安心しつつ、できるだけ横井さんの視界から離れたところに腰をおろします。
 
 「ね、私はね、サウナには50年はいっていて、そのおかげで、健康そのもの、でえすっ!だからね、若い人にもね、おすすめええ、しまあすっ!是非サウナを続けてくだあ、さあいっ!ね、うん、うん、うん、うん、私はね、毎日はいってるんです、ストレスも解消されるし、ね、高血圧の人はだめですよ、でもね、失恋したとか、うへへへ、そういうストレスもね、うん、うん、『男はタフでなければ生きていけない優しくなければ生きいく資格がない』ってね、うん、言ったひとがあってね、ほれ、ええと誰だっけ、ほら有名な・・」
 おお、それはレイモンド・チャンドラー!横井軍曹にそういう読書の嗜好があったとは意外です。それともハンフリー・ボガートの方を言ってるのかな?
 「ああ、あれだ、原田芳雄だ!うん、うん、あの人がね、『男はタフでなければ生きていけない優しくなければ生きいく資格がない』っていったんですよ。うん、うん、それでね、失恋もね、サウナでながしちまうんといいので、是非、おすすめえ、しまあすっ!」
 ・・・・下手に助け舟を出さなくてよかったです。原田芳雄が出てくるとは!
 「はあ、そうですか。」
 「うん、うん、うん、うん、私はね、毎日です、毎日。酒も毎日!かならず、ほれ、あそこの三王子の小江戸街道沿いの焼き鳥、ええと名前なんつったけな、あるでしょあの有名な・・・、とにかくそこへ毎日酒を飲みにいくんです・・・」
 毎日いくうえに、有名なのになんで店の屋号がでてこないんだろう?横井さんは言うまでなく僕の疑問なんぞには構わず、どんどん話を天動説的に進めていきます。
 「それでね、わたしはね、もう70歳だからね、年金で暮らしているからね、そんなにたくさんは飲まない、若いひたあ、たいへんだ、年金がもらえなくなっちまうかもしんねえ、つうんだから・・、気の毒に思って、まあすっ!わたしはね、70で死ぬんだ、それ以上生きてもしょうがねえや、70でぽっくり、ってね、もう70になったからね、そろそろだあね、おっと、そのまえにダービーだ、こんだあ負けるわけにはいかん・・」
 何を言っているのかさっぱりわかりません。さっきまで明日にでも身罷りそうな悟ったことを言っておいて、いきなり博打の話を持ち出して全身是煩悩の塊かの如くダービーにむけて一人で燃えています。
 「それでね、毎日すっこしだけ呑んでね、そのあとね、あそこへ・・・・」
 そこまできて横井さんは珍しく少し詰まりました。
 「ほれ、あそこ、呑んだらね、その後ね、あそこへ、私はね、あそこの会員になっててね、あそこはサウナがあってね、ええと名前なんだっけな、そこへね毎日ね・・・」
 ほう、横井さんは大立目だけじゃなくて、三王子でも行きつけのサウナがあるのか、さすがだな・・、と僕が心ひそかに関心したとき、それまで『呑んだ後にいく会員制のサウナ』の名前が出てこずに苦渋の表情だった横井軍曹の顔がぱっと明るくなり、床を指さして大きな声を出して、その相手のみならず僕のように思えず聞き耳をたてていた人間をも驚愕させる警句を吐きました。すなわち横井軍曹はこういったのです。
 「あっ!ここだあっ!ここっ!ここ、サウナだよね?」

 もうひとりの田中要次さんは、職業は福祉関係、年の頃は50歳半ばくらい、これまた仕事帰りにジムのプールで泳いでサウナにはいるか、或いは泳がないまでもサウナには毎日はいり、それから血圧をさげるために電車で30分くらいかかる勤め先に自転車で通ったことがある、という人です。これも僕がサウナで同浴したときの田中さんのおしゃべりの範囲でわかっちゃった個人情報です。
 田中さんは、見た目も話し方も非常に紳士的で、横井軍曹みたく『うん、うん、うん、うん、』なんて言ってないし、話している内容も論理的で、一見横井軍曹より無害に見えます。ところが僕の観察によるとむしろ田中さんのほうが要注意人物なんです。それは、何故かというと、田中さんは、実は横井さんよりもずっと『サウナにおける沈黙時間に対する耐性』が低く、とにかく誰彼なく話しかける頻度が、横井さんよりずっと高いから、なんであります。だから下手を踏んでサウナでふたりきりになる場合、僕としては横井さんと二人きりよりも田中さんと二人きり、のほうがずっといやですね。

 この二人はもちろん顔見知りで、お互いに敬意をはらっています。横井さんは田中さんに、
 「ああたはいい体してっから長生きするよ。おらあ70でぽっくりいくけどね・・」
 と、会う度に言ってますし(たしかに田中要次さんは年齢のわりには引き締まった筋肉質です。)、田中さんは横井さんのことを
 「サウナの神様」
 と(やや、芸がない呼び方、ですが、そういう点も僕に言わせると彼らの特徴のひとつであります。)いつも崇めてます。

 あるとき、僕がサウナにはいっていったら、すでに横井庄一さんと田中要次さんが先客でおり、大きな声で会話が進行中でした。
 「ここんとこ、どうもいけねえ。どうも調子が悪くて、今日もサウナは一回で帰ろうかと思ってるんだ。」
 と、横井さん。
 「そういうときもありますよ。」
 と、田中さん。ここまではごくありふれた、そして、特に齟齬の無い会話でした。田中さんが続けます。
 「人生はいいときもあれば、悪いときもあるんです、今は我慢のときでしょう。」
 「うん、どうもいけないんだよなあ。」
 「巡り合わせですよ。中島ゆみきの『時代』ですよ。」
 お、唐突に中島みゆき、か・・・。
 「サウナの回数が少ないからかなあ・・。」
 声は二人とも相変わらず大きいですけど、このあたりから会話のかみ合わせが怪しくなってきます。
 「中島ゆみきですよ。中島みゆき知ってますか?」
 田中さんは、先ほどの発言の無視が許容できなかったらしく、もう一度『中島みゆき』で突貫してきます。
 「・・はあ?しりまあ、せえんっ!」
 しょうがなく相手にした横井さんに『中島みゆき』は一蹴されてしまいました。ところが『知らない』って言っているのにこの言を受けた田中さんはいきなり、
 「♪んふふふ~、んふふふふ~、んふふ~、んふふふ~、んふふふ~・・・」
 と眼を瞑って、顎を微かにあげ、首を左右に少し振りながら、自分に酔いしれるかのようにハミングで『時代』を歌い出しました。うわ、この二人、会話が全然噛み合ってないうえに、片方は歌いだしたぞ、仮にもサウナという公共のスペースなのに!

 ・・・・僕はいまでも香川先生の忠告を無視してサウナに通ってますが、幸いにして横井庄一さんとも田中要次さんとも会話はありません。会話のないうちは戦々恐々としながらも通えますけど、一度捕まったらそれ以降通うのをちょっと考えちゃうかもしれないです。


===終わり===
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僕とおまわりくん。完結編。

 我ながらなんでこんなことが、とあきれるくらいどんどんとこの種の話がで出てきちゃうんですけど、このまま勢いにまかせて続けていくと、推移せんか、反体制人物として公安当局から監視の対象とされ、一歩外に出るやたちまち尾行がつき、帰宅すればあちこちに仕掛けられた盗聴器におならの音まで聞かれてしまう、などということに(でも改めて断っておきますけど、僕は別に警察権力を批判しているわけではなくて、僕に現実に起こったおわまりくんとの出来事を、能うかぎり準客観的に、-100%客観的、というのはあり得ないです。-、記述しているだけなんですけどね。)、なりはせんか、と危惧されるので、今回を『完結編』ということで、僕とおまわりくんとの相性の悪さについては一旦区切りとしたいと(じゃあ、まだ話があるのか?というと、無い事はない、です。)思います。

 とことん相性が悪いんですね、僕と大立目警察は。あれはもうかなり前のこと、やはり僕はまだ独身で、実家から会社に通っていたときのことです。すいぶん年数が経っているけれど、『これはあんまりなんじゃないだろうか?』と思ったことなので僕はまだ鮮明に覚えています。その時の、大立目警察の当事者のおまわりくんにとっては些細なことでしょうから全然記憶に残ってなんかいないでしょうけど。

 たしか初夏の、ある金曜日の夜のことでした。僕はその頃、生来の要領の悪さも手伝ってか、ほぼ毎晩のように深夜まで残業をし終電で帰る、という暮らしをおくっておりました。その夜もいつものように終電で帰りJR東大立目駅で電車を下車すると、南口に出て、いつのまに降り出したか、ぱらつく小雨の中、しかし傘を持たなかったので、打ちたきゃ打て、という無防備さで小雨にうたれつつ、市指定の自転車置き場にある自分の自転車を取りに、-当たり前です、自転車置き場で他人の自転車を物色していたらそれは『取る』という漢字方面じゃなくて『盗る』という漢字方面の動きです。-向かいました。未明に残業を終えて雨にうたれつつ自転車をとりに行くサラリーマン、というと、なんだか侘しい構図ですが、僕の心中の言葉は、雨など全く意に介さず、むしろ『やれやれ、ともかくも今夜は心置きなく泥のように寝るぞ。ここのところ慢性的に月曜から金曜まで睡眠不足だからなあ。』という軽い開放感すら伴っていました。
 それはまったく突然のことでした。さすがはプロですねえ、いったいどこにいたんでしょう。僕が暗闇のなか、今朝(12時をとうに超えているので正確にいうと『前日の朝』ってことになっちゃいますけど)自分が駐輪した場所の記憶と、『似たような自転車が多いからわかりやすいようにね。』と母が僕に無断で、泥除けだのシャーシーだの、とにかく自転車で書けるところには全部書いてみました、という勢いで何箇所にも油性マジックペンで黒々とびっしりと書いた『緑慧太』という名前、をたよりに自分の自転車を、-しつこいですが、自分のです。ちゃんとお金を出して、自転車屋で購入したものです。-母のおかげもあってか、然して苦労もせずに見つけ、さあそれに乗って帰ろうと、鍵をはずし、ハンドルに手をかけた時です。
 「ちょっといいですか?」
 振り返るとそこには雨合羽を着た大立目警察の制服おまわりくんが立っていました。僕は何のことやら全く見当がつかず、ただ、いいですか?、と言われれば『だめです!』なんて即答できないのが(なんでできないんですかね?)制服だの警察手帳だの潜在的な力ってもので、僕は、
 「・・・はあ。」
 とうめきつつ、しかし結果としては唯々諾々としておまわりくんの会話に絡め取られてしまいました。
 あれ?夜目を凝らすと、なんと僕を囲む制服おまわりくんは、4、5名に増えています。
 いったいどこにいたんでしょう。後からわかったことですが、自転車に乗ろうとする時点で僕が彼らの存在に気付かないのも道理で、彼らは物陰に隠れて僕の自転車をはじめ、何台かの自転車をあらかじめマークしておき、その自転車に手をかけた怪しからぬ人間が現れたなら、その人間に気付かれないように近づこうと準備していたんです。
 「お仕事のお帰りですか?遅くまでお疲れ様ですね。」
 4,5人のうち最も年配と思しきおまわりくんしかしゃべりませんが、言葉遣いは丁寧です。僕は依然として事態が飲み込めず、おまわりくんの質問に(後で思えばそれらは彼らにとってはどうでもいい会話だったわけですけど。)ぽかんとしながらも馬鹿正直に答えます。
 「はあ、いつもこれくらいです。」
 「残業ですか?」
 「え、はあ、まあ。」
 今思えば大きなお世話です。今思えば、ですけど。
 「あのね、駅の向こう、北口に交番があるんです。」
 「・・・はあ。」
 「ご存じですか?」
 「・・はあ、知ってるのは知ってますけど・・。」
 「そうですか!ちょっとだけ交番で話をきかせてもらえますか?」
 はあ?・・・???
 そのときの僕は、全く、無垢と言いましょうか、鈍感と言いましょうか、事ここに至っても、『真夜中のおまわりくんの集団行動』の目的や、僕にいったい何を言いたいのか、が天地神明にかけて、これぽっちもわかりませんでした。いや、同じ状況に遭ったら今でもわからないかもしれません。交番でお話???
 「はあ・・。」
 「そうですか、ありがとうございます。いやこれは結構、我々が持っていきますから。」
 依然言葉遣いは丁寧です。ただ、『はあ』を繰り返す僕と違い、おまわりくんたちの動きはそつがなく、いつのまにか僕の自転車は僕に話しかけているのとは別のおまわりくんの手に落ちており、彼が押して僕らのうしろからついて来ます。
 「あ、すいません。」
 どこまで阿呆なんでしょう、僕という男は。てっきり真夜中に交番に案内するからには、自転車くらい持ちますよ、という、まさに公僕らしい行動、と勘違いして、え、自転車もってくれるの悪いなあ、すみませんね、とお礼までいっちゃいました。
 「会社はどちらですか?・・・ほう、あの会社ですか。」
 僕はおまわりくんと他愛のない雑談などしつつ、しかし、周りを4,5人のおまわりくんに『囲まれながら』、ほどなく北口の交番に入りました。
 
 「そこへお座りください。」
 小さな交番の真ん中におかれた机にひとつしかない出入り口を背にして、パイプ椅子に座るように言われました。なんだろうなあ・・・と判然としないまま僕は言われた通り、椅子に腰を下ろしました。
 「身分を証明するものお持ちですか?」
 おやおや、なんかものものしいことになってきたな・・。
 「へ?はい、これ免許証です。」
 僕が自動車免許証を出すと、内容を確認して返してくれました。でも一体なんだって・・・?
 「あの自転車だけどね、」
 あれ?なんかさっきまでと口調が違うんじゃ・・・。
 「・・はあ。」
 「あれ、あなたの?」
 はあ?何言ってんだこのひと。
 「へ??はい、僕のですけど・・。」
 「へえ、そう。買ったの?」
 おいおい随分立ち入ったことを聞いてくるじゃねえか。
 「は?はい、買いましたけど。」
 「ふうん、実はさ、あの自転車、盗難届が出てるんだよね。」
 「え??」
 あれ、俺そんなことしたっけ?知らないところで母親が届け出たことがあるのかな?
 「あれ、本当にあなたの?」
 「・・・・・」
 「あなたもね、立派な会社にお勤めなんだから・・、」
 だから、なんだよ。そのとき、いつのまにいたのか僕の背後から別のおまわりくんの声が聞こえてきました。
 「あなたの会社はね、あなたはね、知らないと思うけど、」
 そこには、若くて屈強そうなおまわりくんがひとつしかない出入り口の真ん前で、足を大きく横に広げ、後ろ手で腕を組んで、胸を張り出して仁王立ちに立ち、出入り口を体で『塞いで』いました。そして彼は、制服のジャケットの前襟部分を片手の指でつまみながら続けました、
 「こういうのも作っているんですよ。うん。そういう立派な会社に勤めているんだから・・、」
 なんだ、なんだ俺には別に逃げなきゃいけない理由もないのに何をしゃちほこばって出口を塞いでるんだろう。だいたいが若いくせにいやに物言いの高圧的なおまわくんだなああ、それに『あなたは知らないかもしれないけど』って、俺の会社がおまわりくんの制服を扱っているらしいことくらい知ってるぞ、逆に一介のおまわりくんのくせにそんなことよく知ってるな、総務部にでもいたことがあるのかな・・・・と依然事態が飲み込めずぼんやりと考えている僕の心に、その若いおまわりくんが放った二の句は、-しかし、おまわりくん側に言わせると、ようやっと、というところでしょう。-決定打となりました。
 「今、正直なことを言えば、我々も悪いようにはしないよ。」

 !!!あれ、俺・・自転車泥棒扱いをされている!僕はようやく事態を飲み込み、咄嗟に先ほどのおまわりくんたちとのファーストコンタクトからを振りかえりました。そうか、-気付くのが、かなり遅いけど。-この人たちは俺に声をかけたときから俺を自転車泥棒と決め付けていたんだ!自転車を押してくれたのも親切心からではなくて、盗難届がでている物をおまわりくんの手に保持しておきたかった、あるいは被疑者-即ち『何故か僕』ですけど。-が自転車に乗って逃亡することなどがないようにしていた、に違いない!

 「ちょっと待ってください!」
 僕は濡れ衣であることを立証しようと躍起になりました。しかし、みなさん知ってますか、世の中に何が堅牢だと言って、『頭からこいつは泥棒ときめつけているおまわりくんのたちの群集偏見』ほど頑ななものはありません。何を言っても信じてくれないんです!しかも全員そろって!いきなり『正直なことを言えば、我々も悪いようにはしないよ』だもんなあ。
 「ほらこれ、あんたじゃない人からこの自転車の車体番号で盗難届でてるでしょ?わかったら権利を放棄して持ち主に返す、っていうこの書類に指紋押して。」
 「ちょっと待ってくださいよ。」
 「とにかく明らかに盗難車なんだから指紋押して。押さないの?」
 言葉にするとたいした字面ではないですが、押さないとどういうことになるか知らんぞ、という威圧感が、しかも狭い派出所に詰めたおまわりくん全員からびしびしと伝わってきます。いや車体番号とか言われても・・・・。
 「あなたね、買ったってどこで?買ったのならなんで防犯登録してないの?ええ?」

 そうです、そうなんです!思い出したぞ。実はこの自転車は母と休日に近所を散歩していてたまたま目に付けた、自転車屋で販売していた中古自転車だったんです。慧太、あんたの分いち台足りないわね、でもどうせ駅との往復なんだからこの中古でいいじゃない、随分安いし、そうだね買うか、ということで確か購入したんです。しかも!決まりごとのはずだからしておきたい、と粘った僕に対してその自転車屋の主人は『別に義務じゃない』だの『登録料が無駄だからやめとけ』だのいろんな理屈をつけて頑迷に防犯登録をしてくれなかったんです!さてはあの自転車屋は確信犯だな、嵌められた!
 僕は、そのことに気付き、やや興奮しながらそのときのことをおまわりくんにまくしたてました。ね、ひどい自転車屋でしょ?
 「はあん?なんだあ?防犯登録を自転車屋が断っただあ?」
 全然だめ、です。もう頭から犯罪者と決めつけているので、おまわりくんは全員、もっとまともな嘘つけねえのかよ、って顔をしていて、僕の話にちょっとでもなびく様子すらありせん。確かに僕の話って、-だから事実なんですけどね。-、いかにもでっちあげっぽいです。
 「それで、どこで『買った』の?」
 面倒だなあ、買った買ったっていうなら自転車を言ってみろよ、どうせ、嘘だろうけど、と斜に構えながら一応聞いてきました。
 「えっと、名前はわかんないんですけど・・・」
 おまわりくん、ほ~ら見ろ、うろんなことしか言えんだろ、って顔してます!いやだから、散歩中に目にはいった自転車屋の名前なんか覚えてないっ!
 「あの、あそこの自動車教習所の前をまっすぐ西に行って踏み切りを超えて右側にある・・」
 するとさすがは、普段おまわりを生業としているおまわりくん、すぐに、
 「ああ、あるね、ええと・・・」
 とその自転車屋の存在を確認し、それどころかそのうちのひとりが件の自転車屋に電話をし始めました。ほう、これで俺の冤罪も晴れる、俺の主張どおり自転車を追い詰めてくれたら、たとえで電話でも向こうの言うことにぼろがでるはずだ。やれやれ・・・、もう2時じゃねえか・・・・。
 ところが、です。思い込みというのは本当に恐ろしいもので、おまわりくんは僕の言う自転車屋が実在したもんだから-だからあ本当にそこで中古を買ったら、防犯登録を断られたって言ってるっしょ!-いちおう電話をしたんだけど、電話をする前から、彼らの目の前にいる僕が嘘をついていて、僕の自転車購入時の話の経緯はでっあちあげだ、と決め付けているがゆえに、なんとものすごく馬鹿丁寧に、『夜分遅くたいへん申し訳ございません。』なんて言いながら、短い電話をしたと思ったら、先方を籠絡するどころか、あっというまに、僕に言わせればその限りなくクロに近いその自転車屋に丸め込まれて-『そうですね、まさか盗難車なんて販売されてないですよねえ、ええ、ええ、今日はもう遅いですから、ええ、このへんで失礼します。』なんて言いながら、-おい、もう遅いですから、って俺はいいのか?-、電話を切ってしまいました。それどころかその返す刀で、
 「いまどきね、盗難中古車を売る自転車屋なんて聞いたことがない。」
 と僕に向かって喝破しました。それこそ、僕の心からの叫びじゃありませんか、大立目警察おまわりくん諸君よ、なぜそれがわからん!?
 「あなたのいうことはね、盗んだ人間がよく言うことなんですよ。」
 「!」
 「それにね、自転車を盗んでそれを使う人間はね、自分のものだ、と主張するために自転車のあちこちに名前を書く傾向があってね。」
 「なっ・・!」
 「あの自転車も・・・・」
 「いや、だからそれは防犯登録もしてないから、母がわかりやすいように、と・・・・」
 「いまどきね、防犯登録をしないで自転車を売る自転車屋なんて聞いたことがない!」
 『振り出しに戻る』というフレーズが無力感とともに僕の頭の中で浮かんできます。
 
 「で?どういう状況で『買った』の?ええ?」
 僕は半ば途方にくれながら、休日に母と散歩していて、目についた中古自転車を購入したこと、を話しました。するとおまわりくんはが今度は僕の母に電話をし始めました。おいそれこそこんな時間に警察ですが息子さんが盗難自転車に乗っていたのでの、拘束してます、なんて人の親に言うんじゃ・・・・と思う暇もなく、その通りのことをしゃべりはじめました。おいおい、そんなこと言われたら母親もびっくりするじゃんか、そもそも自転車屋への電話での態度と僕の母親へのそれが随分違うじゃねえか・・・。
 電話をしているおまわりくんは僕を横目でちらちらと見ながら、それでも母親に自転車を買ったときのことをなにやらぼそぼそと質問してくれているようです。しばらくたって電話を切るとそのおまわりくんは開口一番こう言いました。
 「おかしい。」
 ええ、今度は何が!母親があんまり自転車購入時のことを記憶していなかったのかしらん・・・・?
 「おかしい、あなたの言うこととあなたのお母さんのいうことは同じだ。おかしい。」
 なんだよ、それ!!同じに決まってるじゃんか、俺は事実しか言ってないんだから!
 しかし、いろんな状況証拠をもとに(僕に言わせるとその証拠集めの姿勢には、おまわりくんたちの考えがバイアスがかかって投影されているので、『状況証拠』ではなくて『準状況証拠』ですけど。)、鼻から僕を犯罪者だと決めつけていて、僕は嘘を言っている、自転車屋の言うことは間違っていない、と堅牢に信じているおまわりくん達にしてみれば、形式上確認はしてみたものの、僕の話と母親の言が細部にわたるまで同じだったので、そんなはずはないってことで思わず『おかしい』という言葉が口をついてでた、ようなんですね。

 母親の『証言』で少しだけ僕の『犯罪』に疑問をもったおまわりくんたちは、しかし依然として自転車の権利放棄を僕に促しました。僕は、-今思うとなんだってそんなことを言ってしまったのか自分でも口惜しいですけど。-、もう自転車なんかどうでもいいや、という気になって、
 「わかりました。権利は放棄します。」
 と言って、指紋を押してしまいました。大失敗です。すると、おまわりくんたちは、ようやく、
 「今日のところは遅いから帰宅してよし。」
 と言い出しました。しかし、僕は全然納得いかないので、
 「なんですか、それ?それって、おまわりさんたちは僕を自転車泥棒だと思ったまま今日の夜をすごす、ってことですか?」
 と帰ってよし、と言っている相手に直球を投げました。大胆不敵です。するとおまわりくんも、
 「そうだ。」
 と単簡に直球を投げ返してきました。いやそれは納得いかない、帰らん、もう一度自転車屋に電話してくれ、いや、もう遅いから、今日は帰れ、という妙な押し問答を繰り返した挙句、結局は事態は収拾しないまま、朝の3時前にとぼとぼと歩いて帰宅しました。

 その後、-僕も若かったなと思います。なぜって元来小心者でそのうえに、犯罪者の嫌疑をかけられた、大袈裟に言うと明日をも知れない身になっておりながら、殆ど意に介さなかったんですから。-帰宅すると、即、僕にしては剛毅にもぐうぐう寝込んでしまいました。
 けれども、朝10時頃、まだ僕が熟睡中に母親におこされました。
 「大立目警察が来てる。」
 っていうんですね。なんだなんだこの公僕君たち、昨日の続きをやろうってのか、と腕撫して母親が応対している玄関先に僕が顔を出すと、そこには昨日僕を捕まえた集団のうちの二人が僕の自転車と一緒に立っていました。そして、僕を見るなり、昨夜とは打って変わって丁寧な態度で、
 「どうも、あなたの言うことが正しいようです。」
 と臆面もなく言い放ちました。そして、
 「あの自転車屋は怪しい、今から件の自転車屋に行ってきます。」
 と言いました。僕は、
 「でしょ?僕も一緒に行きます。今から行きます!」
 とやにわに熱くなって同行を要請しましたが、その申し出はなにやら妙に敢然と
 「いえ、あなたは来なくてもいいです。」
 とぴしゃりと却下されてしまいました。

 これは、ちょっとあんまり、です。
 ちなみに『僕の自転車』はどうなったかというと、その朝、おまわりくんが押しながらまた持って行ってしまい、それっきり、なんであります。なんだか納得いかなかったけれど、もうあまり関わりたくないや、と思ったので僕から大立目警察に問い合わせすることなく今日に至っています。
 納得いかない、と言えば、あの僕の指紋は、『権利放棄について』だけに押捺したはずなんだけど、前科者として警察のデータに残っているのかしらん、と思うと極めて納得がいきません。
 そして、些細な出来事ですけど、この件以来僕は、-すみません、それまでは実感してませんでした。-始めに思い込みありき、で状況証拠と国家権力の強要による自白によって犯罪が立証されることは十分ある得る、と次回捕まったときのために心の準備ができるようになりました。え?いや、もちろん現在も世間様から後ろ指さされるようなことはしておりません。はい。

===終わり===

僕とサービス業。スズメバチ編。

 『スズメバチ』といっても、何かの比喩ではありません。
 つまり、例えば『筆者がごく普通にはいった飲食店でスズメバチかの如く凶暴な店員に接客を受けた、相変わらずサービス業と相性が悪いなあ。』という類の話でもなければ、『出し抜けにスズメバチと出遭うかの如く予想だにしない一瞬で全てを奪われてしまったかのような一目惚れ、の果てに恋愛をし、その恋愛が、あたかもスズメバチに刺されたかの如く衝撃的で深い傷と共に幕引きされてしまった。』というような話でもありません。後者については、万事に晩生の僕には珍しく、そういう経験が一回だけあるんですけど、よくあるように自分には衝撃的でも、他人様には面白くもなんともないそこらへんに転がっているような失恋話、なので、経験があるから、といっても特に触れないんであります。だいたいが、あの失恋の仕方は、僕に、スズメバチにさされたかのように大きく傷をつけ、人間としての自信をすっかり失わせた、のではありますが、当の刺した三宅奈美さんにしてみれば、彼女は恋愛経験が僕よりも遥かに豊富だったので、-そのこと事態は別に是非を云々するようなことではないんであります。-、『え、私、そんなに激しく刺したかしらん?スズメバチかの如く、なんて大袈裟な、オホホホホホ!せめて、蟷螂の斧、程度じゃなくって?』なんて思ってたり、いや刺したこと事態、自覚がないかもしれま・・・。

 閑話休題、つまりはここで僕が今回話題にするのは『比喩としてのスズメバチ』ではなくてスズメバチそのもの、のことです。

 あれは、三年ほど前の、いや四年前、むむ、五年はたつかな・・・、とにかく数年前の初夏、ちょうど今頃の季節のことです。
 僕は、その日、昼ごろ、自宅の近所をいつものようにぼーっと、下を向いて、ゆっくりと(僕は、たいていひとりで歩くとき、ぼーっとして、下を向いて、ゆっくり歩いてます。なんでだか知りません。社会人になって会社の人たちがあんまり歩くのが速いので、びっくりして仕事中はそのペースにあわせていたら、そのうち僕も歩くのが速くなるのかな、となんとなく思ってましたけど、ひとりになると依然ゆっくりと歩いてます。)歩いていました。
 近くに忽然とある(つまりはその周りには住宅地と公園と学校があるだけで、繁華街など何もない)、わりと大きな、でもいつも閑散としている、二階建てのスーパーマーケットの前を通ってそのスーパーマーケットの端に店子として入居しているであろう、一階のクリーニング屋さんの前を通ったときのことです。
 僕はあるものを己が進行方向の歩道のど真ん中にみつけ、慄然としました。そこには大きな大きな一匹のスズメバチが、なにやらアスファルトのうえで羽を休め、よたよたと、しかし、その巨体な虎模様の体躯は充分に威嚇を持って、道の上を『歩いて』いました。
 「ぬ、ぬおー!スズメバチ!あぶっ、あぶっ、危ねえっ!」
 前にも言いましたけど、僕の住んでいる大立目市、しかも、JR東大立目駅近辺は特にまだまだ緑が多いので、様々な生き物と遭遇することがあり得るわけです。しかし、斯様な歓迎されざる獰猛な生き物との遭遇にはさすがに僕も、敵に自分の気配を悟られまいと、咄嗟に歩を止め、立ち尽くしました。
 おいおい、頼むよ、こっちはさ、家に帰りたいだけで、なにもあんたの縄張りを邪魔しようってんじゃないんだから・・・・。僕は、金縛りにあったかのように息をひそめ、しばし相手と目が合わないように伏目がちに観察し(もちろん、スズメバチと目が合ったのかどうか、なんてわかんないんですけど、僕のそのときの恐怖と警戒心を形容するなら、本当に目が合わないように、そろそろと動かざるをえなかったんです。)、さて、どうしたものか、と考え込みました。退却するか??いや、こういうときは返って敵に後ろ姿を見せて死角をつかれたりしたらたまらん・・・・、じゃあ前進か・・・しかし、このまままっすぐ行くと、敵との距離がどんどん縮まってしまう・・・・・、ほんの一瞬ですが、さまざまな取捨選択を体を凍結させながらじっくりと熟慮をした結果、僕は『敵との距離を縮めずに前進する方策』を選択しました。
 言い換えると、いまのスズメバチと僕の距離とを限界として、その距離を半径とし、次の歩幅からは、その半径を忠実に保ちながら円を描くように、一歩づつ斜めに、しかし、つま先は安全圏にはいったときに即、直進できるよう、常に前を向かせ続けて、じりじりと進みました。これは、ラグビーでいう『スワーヴ』といわれる基本的なステップワークのひとつで、ウイングがよく使うテクニックです。最近のラグビーではあまり聞かなくなりましたけど。え?説明ではよくわからない?『欽ちゃん走りとの違い』を教えろ?まあ、ここは本旨ではないので、そこはよしなに想像してください。
 とにかくも、僕は、スズメバチを対面とみなし、いったん歩を止めた場所を起点として、しかし、大いに、それこそラグビーなんかより数倍も、身の危険を感じながら、じりじりとスワーヴしていきました。幸い、スズメバチは僕の巧みなスワーヴを見抜けなかったと見えて、僕は、彼女を後方に置き去りにすることに成功しました!
 よし、ここで、トップスピードで脱出!僕はそれまでの『敢えてスピードを殺したスワーヴ』から一気にスピードを上げ、直線の最短距離を10メートルほど駆け抜けました。
 自らのスピードを意識して遅くすることで、こちらを狙ってくるであろう相手の動きをも緩慢にさせ、その間隙をついて一気にトップスピードで抜き去る、これはラグビーでいうところの『チェンジ・オブ・ペース』と言われる、これまた基本的な、しかし、スワーヴと違ってたいへん難易度の高いステップワークです。
 え?よくわからない?なんでいちいちラグビーに例えるんだ?まあ、そこは本旨ではないので、適宜読み飛ばしてください。まあ、『チェンジ・オブ・ペース』も最近のラグビーではあまり聞きませんけど。詰まるところ、いろんなステップワークを駆使し(要は、ゆっくりと遠回りして、安全圏にはいったところで全速力で逃げた、だけだろ。といわれれば元も子もないですけど。)相手を刺激することもなく、僕は、スズメバチの脅威からとりあえずは脱しました。
 『ふう、あぶねえ、くわばら、くわばら。』
 僕は最前までの緊迫状態から脱し、ほっと一息つきました。めでたし、めでたし・・・・・・・、とはいかないんですね、僕の場合は。

 すなわち、僕が自分の安全を確保したことに100%利己主義然として満足したあと、ようやく思い浮かんだ次の思いは、『はて、俺はいいとして・・・、あのスズメバチを放っておいていいのか?・・・』という疑問でした。
 あの様子では、スズメバチはただ単に羽を休めているだけで、どこか傷ついていたり弱っていたりしているわけではなかったので、そうとは知らない歩行者がスズメバチのすぐ横を通り、なんとなく足で接触し、スズメバチを結果的に蹴り上げるようなことになったら・・・・、それがフィジカル面での弱者、即ち、老人とか、女性とか、小さい子供だったりしたら・・・、うわあ、なんか嫌だなあ、そんなことになったら寝つきが悪いよなあ、と、僕は思いました。

 ここで些細な注釈ですが、このとき頭に浮かんできた思考に対して、僕が反射的に抱いたこの感想は、僕という人間の心の小ささ、気の弱さ、我が身可愛い度の高さ、を端的に表していると思います。なぜって、僕は『あとから刺される人が出てきたりしたら気の毒だ』ではなくて、ここで放っておいて後で『スーパーマーケットの近くでスズメバチに刺された人がいるらしい。』と聞いたときの自分への後ろめたさ、それによって惹起されるであろう『寝つきの悪さ』(こういうとき『寝覚めが悪い』と言うのが本来の正しい日本語だとは思いますが、僕は自分にうしろめたいことがあると寝覚めが悪い、よりも、うじうじと悩んで寝つかれない、ほうで、『とりあえず寝ちまったけど、なんだか寝覚めがよくねえぜ』なんて肝の据わった心境にはどうしてもなられないので、敢えて『寝つきが悪い』と、ここは常識に曲がってもらって、自分の心境に正直な言葉にしちゃいました。)が、『なんか嫌だなあ』って思ったから、なんですね。他人が気の毒だから、とかではなくて、飽くまでも自分可愛さ、が一番にきている思考・感情なわけです。うん、僕らしい。

 さて、それはともかく、どうしたものか。
 舞い戻って退治するなんてとんでもないしな・・・・。
 おお、そうだ!こういうときこその、市民の安全確保のためにある公僕、おまわりくん、我が大立目警察、ではないですか!
 『スズメバチ出現』なんて僕に言わせると、被害金額の少ない空き巣とか、ましてや完全に勘違いして善良ないち市民と、頭の帽子を抑えつけながら夜中に自転車で追いかけっこすることなんかよりず~~~~~~っと、重要度の高いことであり、これを排除するという仕事は、公僕しての立派な、かつ、確固たるリスクマネジメントに決まってます。
 それにおまわりくんに通報して、あとは任せてしまえば、一応手は打ったことになるから、何か起きても自分だけが悪いんじゃないか、なんて寝つきの悪さに悩まなくても済むしな、と僕はずる賢くひとり心中頷きました。
 そうと決まれば善は急げ、僕はスズメバチをやり過ごしたその足で、帰宅せずにまっすぐに駅の北口にある派出所に向かいました。

 そこには、年の頃40代半ばと思しきやや細身の眼鏡をかけた一匹の、いや失礼、一人のおまわりくんが、『びしっ』と音のでるくらいに背筋を伸ばして派出所の前で立って町に向かって(といってもしごく平穏なところでこれといって何もない思うんですけどね。)右に左に睨みを利かせていました。
 おお、やっておるな、おまわりくん、おわまりくんはそうでなければ、うんよろしい、なかなか頼りになりそうなおまわりくんではないですか。
 「あのーー。」
 「はい?」
 言葉は丁寧ながらもこちらに向けられた眼鏡の奥の眼光には鋭いものが感じられました。おお、ますますよろしい。
 「さっきですね、あの三丸(みつまる)マーケットの前の歩道に、」
 「え?」
 おまわりくんは、さっさと義務を終えようと単刀直入に本題を切り出した僕にやや戸惑ってます。
 「あの、三丸マーケットあるじゃないですか、」
 「あ、はいはい。」
 「そこの前を今通ってきたんですけどお、」
 「あー、はい、三丸マーケットね。」
 お、ようやく追いついてきたな。
 「そこに、こんくらいのでっかいスズメバチがいたんですよ。」
 「え?スズメバチ?」
 「そうなんです!生きてるやつです、生きてるやつ!」
 剣呑だろ?と僕はやや風呂敷を広げて、市民の危機、という認識の共有をおまわりくんに迫りました。
 「それで、一匹?」
 「はい、一匹です。」
 おまわりくんは、見張りの姿勢は依然崩さすに、町にその鋭い視線を投げながら(だから、そんな怪しいことなんかないっ、ちゅうの。)も、僕の話しには対応してくれている、とみえて質問などしてくれ始めました。うむ、頼もしい。
 「生きてるわけね。」
 「はい、生きてます!」
 「あー、あれはね、今頃からなんですよ。」
 「は?」
 「ちょうど今頃から巣作りを始めるんです。」
 ほー、なるほど!さすがによくご存じで!
 「それでね、だいたい一匹が目撃されると、」
 「ほう。」
 「その近くで、巣が作られる可能性が大きいんです。」
 「えっ!?」
 ええー!そらたいへんじゃありませんか!よく知ってるな。だとするとあのクリーニング屋近辺に群生している雑木たちが、かなり危ないってことに!その前に手を打たないと!
 僕は、いまだ姿勢も視線も崩さないおまわりくんの次の言葉を待ちました。例えば『これから行きましょう。場所を案内してくれますか?』という類の、リスクマネジメント遂行に忠実に燃える、公僕らしい言葉を待ったわけです。
 「・・・・・。」
 ところが、どうしたものかおまわりくんはそこまで彼の博識を披露したあと、彼もまたまるで僕の何かを待つかのように沈黙してしまいました。
 「・・・・・。」
 いや、今もうボールはおまわりくん、あなたにあるんであって、僕はもう矢は尽きていますから、僕から会話を転じさせたり行動の提案をしたりはしませんけど・・・。
 「・・・ちょうど今頃からなんですよね。」
 しばらくの沈黙のあと、相変わらずあたりをきょろきょろしながら、おまわりくんの口を出てきた言葉は先ほどの言の繰り返しでした。
 「・・はあ・・。」
 はあ、以外に合いの手の入れようがないです。
 「・・・それでね、一匹いるとその近くに巣をつくるんですよ。」
 「・・はあ・・。」
 いや、だから危ないんじゃ・・・、それでこうやって僕が通報にきているんですけど・・・。
 しばらく、またきょろきょろしながらの沈黙のあと、しょうがねえなあ、ここまで俺にいわせるか、といった感じを行間にぷんぷん匂わせながら、おまわりくんが次に放った発言で、彼が僕に何を期待しているのか、が僕には、ようやくわかりました。
 「あれはあ、どこだったけかなあ、担当は。市役所だったかなあ?うん、市役所じゃないかな?」
 「・・・・・・。」
 つまり、さっきからおまわりくんは彼がいかにスズメバチに知悉しているか、と自慢しつつも、一方で僕に言いたかったのは、要は『俺の仕事じゃないよん』ってことだったんですね。そう考えると、必要以上にきょろきょろして僕と正対して目を合わせて話しをしなかったのもなんとなく意図が見えてきます。

 左様か・・・。ここからほんの100メートル先に明らかな市民の脅威があってそれを現認できる状況にあるのに、隣駅前にある市役所までわざわざ電話を、しかも公僕のおまわりくんがしてくれるんじゃなくて、僕に市役所に電話しろってでありますか?俺の家の前にいるわけでもないのに・・・。しかもあんたスズメバチのことをよく知ってるじゃないですか、その知識はなんのためにあるんですかね?
 だめだな、こりゃ。スズメバチがいます、っていうのに『管轄外なので市役所、だったかなあ、にあんたから連絡したら』なんて、この公僕には、これ以上の期待はできんなあ。
 僕が、自分のほうから適当に、しかし大いに落胆しながら、会話を切り上げると、おまわりくんは安心したかのようにふたたび町を睨み付け始めました。なんだ、それ。その視線にスズメバチが入ってきても管轄外だからって無視するのかなあ?

 まあ、いいや。けれども、僕としてはこのままでは依然寝付きが悪いので、気の毒なことに小心者なのに、僕は勇気を振り絞って現場に戻りました。
 お、まだいる!今度はさっき以上に距離をおいて、そして、ここでスワーヴだ!
 それ!スワーヴうううううっ!

 ううっ・・ほろ?・・あれ・・?・・! 
 おお、これはしたり!豈図らんや、なんとスズメバチは明らかに踏んづけられたのが原因で昇天しておりました。僕のあとを通った勇気のある市民の誰かが、果敢にも踏んづけて成敗してくれていたんです!まあ、路上にいたスズメバチには何も言わせると何も非はないんでしょうけど。しかし、顔も名前もわからないけれど、なんと逞しい市民だ。僕とおまわりくんが不毛な会話で時間を浪費している間に、騒がぎもせず、密かにこんな果敢なことを挙行してくれるなんて!通常のいち市民としては管轄外ともいえる勇気ある行動じゃありませんか!えらい!

 ・・・普通ならば、ここで『これで俺も安心して寝られるわい』と踵を返して大団円、となるところですが、このときは、しかし、そういうわけにはいきませんでした。
 なぜなら、『ちょうどこの時期から巣作りを始めて』しかも『一匹生きているのを見たらその近くに巣を作る可能性が大きい』とおまわりくんから教えていただき、妙に賢くなってしまった僕としては、路上の一匹が成敗されても安心はしていられなかったからです。
 そこで、暇そうにしているクリニーング屋さんに入っていき、
 「あの通りがかりの者なんですけど、ちょっと見てもらってもいいですか?」
 とわけを話して、表にでてきてもらいました。表に出てきたのは中年の女性二人で、自分の店の目の前に転がっている大きなスズメバチの死骸に目をまん丸にして驚いていました。そこで、僕は、このスズメバチはついさっきまで生きていたこと、ちょうど今が巣作りの季節らしいこと、一匹目撃されるとその近くで巣作りをしてる可能性が高いこと、管轄は市役所『らしい』こと、を手短に話しました。するとクリーニング屋の女性二人は、どうも僕を草莽に埋もれるわが町のスズメバチの大家、と勘違いしたらしく、
 「それで、市役所に電話すれば来てくれるんですか?」
 だの、
 「市役所のひとは巣を探しあててくれるんですか?」
 だの、と質問攻めを始めました。
 「いや、あの、ごめんなさい、僕はそこまでしか知らないんです。でもこの死骸を証拠として、それからさっきまで生きてたことを、とにかく市役所に通報されてほうがいいと思います。この近くに巣なんか出来ちゃったらたいへんなことになりますから。え?警察?警察はだめです?いや、なんでだめかって・・いや、そのとにかく市役所に一度電話してみてください。」
 と、通報する役目をクリーニング屋さんに押し付けて、でも管轄の整理までしてあげて、-あたかもスズメバチの大家のみならず、まるで公僕の管轄にも一家言を持つ大家になってしまったかのように-、僕は帰ってきちゃいました。

 だけど、隣駅の市役所にいる公僕に言う前にその辺を『市民の安全の為に頻繁にパトロールしている公僕』に言おうっていう僕や、クリーニング屋さんのおばさんの感覚っておかしいですかね。
 いや、そういう『感覚』の是非についても『管轄外』なんでしょうね、きっと。

===終わり===
プロフィール

緑 慧太

Author:緑 慧太
好きな言葉:『終身雇用』
座右の銘 :『負けるが勝ち』

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