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痛い!!⑥ 後日談。

 僕は鼻骨陥没骨折の荒療治を受けたあと、顔面テープだらけで、大きなマスクをして(マスクは腫れ上がっている鼻と膨らみきっている鼻の穴を皆さんの耳目にさらさないための配慮、なのか、それとも周囲に骨がつながっていないので触ると危険と知らしめるため、なのか未だに判然としませんが、とにかく医者の指示でした。)二週間ほどすごしました。遠目には顔中包帯男に見えたと思います。
 治療後に登校して教室に入ったとき、同じクラスの女の子が、
 「ひ、ひひやはあああ、み、みどりくん・・・」
 と息を飲んだことを今でも覚えています。しかも、骨折と両方の鼻の穴に入れられた20センチに及ぶ長さの脱脂綿のおかげで、顔が全体的に腫れ上がってしまい、唯一露出している目も細く僅かにに開いているだけで、どこを見ているのか、もわからず無感情に見えたようです。
 表情のない顔面真っ白な男・・・いやあ見られましたね、とくに酷かったのは電車の中です。僕は電車で高校に通っていたので、その二週間の間というもの電車の中ではたくさんの好奇の目にさらされました。実はそのときの体験の顛末は2011年1月24日の『セコムしてますか?』で書いています。
 その間、痛み止めが切れたので一度母親が僕の代わりに薬を病院に取りに行ってくれたんですけど、僕の名前が薬局で呼ばれたら、どこからか僕を処置した医者が現れて、
 「あなた、あの子のお母様ですか?いや、彼は我慢強い!」
 とわざわざ話しかけてきて母親をびっくりさせたりしたこともありました。

 二週間ののち、血止めを取る、ということで予定通り再び某大学病院の耳鼻科を訪れました。そして脱脂綿がそろりそろりと抜かれました。
 あろうまいことか直前に医者が、
 「血止め取ってみるけどさ、まだ血が止まってなかったら、血止め入れ直しね。」
 と聞き捨てならないことを言っていたので(前回書いたように、木槌でかんかん、に比べたら『まし』でしたが、20センチの脱脂綿を鼻にぎゅうづめにする作業は十分に痛かったんです。)かなり緊張する儀式でした。のみならず、まだ鼻の中のあちこちに傷があるようで、脱脂綿をゆっくりと抜いていく過程で、その傷に脱脂綿が触れるためか予期しない痛みが何回も襲来しました。しかし、結果として、脱脂綿を抜いても両方の鼻の穴ともに鼻血を出さず、僕は晴れて顔面真っ白男を卒業することができました。膨らみきって上を向いていた鼻の穴も元に戻り、これで普通の人間生活に戻られました。ただ、血止めを抜いてからも数週間は鼻をかむとかなりの量の血がでていましたが、これは小さな傷が塞がっていないからと思われ、それ以外に突如鼻血を出すこともなく、親にもらった元通りの鼻ではないとはいえ、大過なくすごし、ラグビーの練習にも復帰しました。

 しかし・・・、その不安は、血止めを抜いてから一ヶ月後くらいのあるとき、不意に僕の心に小さく浮かんできました。
 どうもおかしんいんです。なにがおかしいって、なんだか片一方の鼻しか空気が通っていないみたいなんです。見た目にはわからないけれど気になって触って確かめてみると、鼻骨もやや、しかし、あきらかに、右のほうが膨らんでいて左のほうが、凹んでいます。これは、まさか・・・・あの荒療治がうまくいかなくて鼻の穴の中が曲がっていて、片方だけ空気が通っていないのでは・・・・・。
 始めは小さな不安でしたが、だんだんと気になってしょうがなくなり、それは心の中で大きくなっていきました。そして、こういうのは気になりだすと悪いほうにしか思えないもので、ふと片方の穴ずつを抑えて鼻の通りを確認すると、いつも左右で違うようにしか思えなくなってきました。
 どうしよう・・・・、もう一度病院に行こうか・・・・、いやもし行ってまたぐいぐい、かんかん、をやられてはたまらん、あれはもう耐えられない、それに鼻が片一方通っていないくらい、生きていくには支障がないだろう、と思ってみたり、いやせっかくあれ程の試練を耐え忍んだのに、治療が未完成なんてあんまりだ、それに鼻が片一方しか通ってないんじゃ、これからラグビーを続けるうえでもしんどいじゃないか・・・・と思ってみたりしました。
 僕は葛藤しました。それからの毎日は葛藤しては鼻の通りを確認し、確認しては葛藤し、という日々でした。しかし、いくら葛藤を繰り返しても僕の鼻骨の凹凸は変わらないし、鼻の通りもどうもおかしいのは変わりません。

 ついに僕は悲壮なまでに決心を固め、みたび某大学病院を訪れました。その日は僕の手術をしてくれた先生が不在で、別のお医者さんが診察してくれました。僕は、これまでの経緯となぜ今日自分がここにいるのか、を説明しました。心の中では、それを聞いた医者が、
 「ああ、それだったら心配ないですよ。」
 と僕の不安を一蹴してくれることを期待しながら。が、医者はほぼ無言で僕の説明を聞くと、
 「レントゲンをとりましょう。レントゲンとったらそれを持ってここへ戻ってきて下さい。」
 と即答し、僕にファイルを渡し、レントゲン室への行き方を淡々と指示しました。僕の心は千々に乱れ、どうしようもない不安で一杯になりました。ああ、話だけでは医者も判断できないのだ、しかもレントゲンをとる、ということは鼻の中が曲がっているかもしれない、ってことじゃないか、もし曲がっていたら・・・。
 大きな大学病院なので診療室からレントゲン室まではかなりの距離がありました。70~80Mくらいはあったように思います。レントゲンを取り、その結果を持って再び診察室に戻りました。
 果たして医者は僕からレントゲン写真を受け取り、黙ってそれに電気を投影して見ていましたが、僕を振り返って見るとあっさりとこう言いました。

 「大丈夫ですね。問題ないでしょう。」

 そんなわけで、僕の鼻骨は今でも右のほうが膨らんでいて、左のほうが凹んだまま、です。ささやかな後日談ですが、あのとき、古い大学病院の薄暗い廊下をレントゲン写真を持って診療室に戻るときの心持ちは今でも忘れられません。一度『木槌でかんかん』の壮絶な痛さを経験しているだけに、不安感だけでなく形容のしようのない恐怖感もありました。『金属棒でぐいぐい、木槌でかんかん再びか・・』などと思いつつ、ここで、全部を投げ捨てて行方をくらまして診療室には戻らないという手もあるんじゃないか、などと真剣に考えながら歩いた、長い長い、70~80Mでした。

 ・・・と、ここまで書いて、この話、なああんかに似てるな、と思っていたら、母親が僕によく話してきかせてくれた(そんな話、子供にするもんじゃない、と思いますけど。)『今ここでこれを放り投げて逃げてしまえばこの件は反故にできる!と何度思ったことか。』と形容した、僕の父親と彼女の結婚式での『三々九度の盃の話』にそっくりでした。
 僕の場合のレントゲン写真も、母親の場合の三々九度の盃も『投げ出して逃げ出したくなったのを踏みとどまった』わけです。
 僕の場合に関しては、結果として『踏みとどまって良かった』んですけどね・・・。

===終わり===

 
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痛い!!⑥

 ひゅー、ありが、ぱんぱん! ござい、ひゅー、す、ぱんぱん!打ち上げ花火の音と冒頭の言葉が重なってしまい、失礼いたしました。本ブログは、遅々として増えぬ読者数も、ものかわ、めでたく100回目を迎えることとなりました。これもひとえに僕のひとがらのなすところかな、と、ひゅー、ぱんぱん!

 と、いうわけで、今回は久しぶりに『痛い!!』シリーズです。

 忘れもしません。高校二年の秋、僕が所属するラグビー部が全国大会地方予選の1回戦に臨んだときのことです。試合会場は某日本大学系列高校のグラウンドでした。そんなことまで覚えています。止んではいたもののかなりのまとまった量の雨の後でグラウンドコンディションは最悪でした。
 ことが起きたのは後半もかなり進行した時間帯でした。ボールを自ら持ち込んだ僕は敵に捕まり、後からフォローに来た味方側に体をひねりつつも敵に絡まれて、味方にもボールを渡せない状態に陥りました。僕と僕が持つボールを中心に敵FWと味方FW十数人が拮抗し、おしくら饅頭のような状態になってしまったわけです。当時のルールでは、そういうときはこのおしくら饅頭全体を相手陣に押し込んだチームが有利とみなされマイボールを獲得することになっていました。抱えているボールをとられないように敵に背をむけ転ばないようにやや姿勢を低くし、ひとり味方に正対しておしくら饅頭の中心にいた僕は、これはボールを移動するのは難しい、と判断し、
 「(球は)出せないから押せー!押せー!」
 と形勢有利によるマイボール取得のために指示を出しました。僕のチームはこの声を聞いてボールの取り合いっこを諦め、おしくら饅頭全体を押し込むことに力を注ぎはじめました。それが奏功し、おしくら饅頭はじりじりと敵陣方向に移動し始めました。よし、これで『優勢』をレフェリーからとりつけられる。
 「押せー!」
 僕はかさにかかって叫びました。
 そのときです。僕の記憶によると敵のプレーヤーのひとりが、僕らの押しに崩されたのか、それとも雨のあとのぬかるんだグラウンドに足をとられたのか、僕のすぐ後ろに倒れていました。僕の踵がそのプレーヤーにひっかかり、僕はボールを抱えたまま仰向けに倒れかけました。味方はそんなことには関知せず、依然全力で押してきます。僕はとうとう味方FW6,7人の体重をうけたまま地面にたたきつけられました。そして運悪く、そのとき僕の眼前にだれか味方FWの頭があったようです。即ち、僕の顔面は味方FWの体重がかかった彼の頭と地面の間で挟み打ちにあって叩きつけられてしまったのです。
 実はその直後のことは僕自身はあまり覚えていません。ただその場にいた味方にあとで聞いたところによると、おしくら饅頭が倒れてレフェリーが笛を吹いてプレーを切ったあと、-僕の目論見の通り味方のマイボールで試合再開になったはずです。-、グランド中に響きわたるような、-チームメイトの言葉を借りると『北斗の拳でケンシロウにやられた雑魚みたい』な-、
 「うおおおおおお!」
 といった言葉にならない大音声を上げたんだそうです。瞬間、何が起きたのかわかりませんでした。ただ、気がつくと、当時のラグビーというスポーツの恒例であった『とりあえず怪我したら、なんでもかんでもやかんの水をかける』という処置を、つまりグラウンドに仰向けに倒れたまんま顔面にじゃばじゃばとやかんの水をかけられ、レフェリーから、
 「わめくんじゃない!男の子なんだから!」
 と叱責を受けていました(今はどうだか知りませんが、レフェリーがなぜかプレーヤーに対してこういった教師然とした言動をする、というのもラグビーというスポーツにはよくある光景でした)。
 僕は、水もかけてもらったし、レフェリーの言うこともわからんでもないな男の子だし、と思い、立ち上がりました。
 「!!?」
 立ち上がったときに、自分に起こったことが、僕は全く受け止められませんでした。覚えのない感覚が鼻から口のあたりを広範囲に覆っていました。うん?なんだこりゃ????僕は、それまで経験どころか見聞きすらしたことのない大量の鼻血を左右の穴から流しはじめたんです。その量たるや尋常なものではなく、もし鼻の中に血を満タンにした風船があってそれを突然針でつついたとしたらこうなるでしょう、といわんばかりで『たらたら』などという可愛いものではなく『どばりどばり』という感じでたちまち鼻から下は血だらけになり、それでも鼻血は盛大に流れ続けました。
 やがてその様子を黙ってみていたレフェリーが僕の顔を覗き込んで、僕の鼻骨のあたりをちょこっとつまむと、さっきまでの叱責はすっかり忘れてしまったかのように、
 「ああ、だめだな、こりゃ。折れてら。」
 と呟きました。僕はその場で退場となり、グラウンド外でしばらく仰向けに寝かされていましたが、数分のち試合が終わった直後にグラウンドに到着した救急車に乗せられて某大学病院まで運ばれていきました。

 さて、ここで、ちょっと確認をしておきましょう。僕は『鼻骨陥没骨折』という怪我を負ったわけですが、鼻の頭を触ってみます。やわらかくてぼにょぼにょしています。これは実は、軟骨なんですね。だから簡単に曲がったり、損傷したりします。そこから指をすこし上にあげて小鼻のあたりを触ってみます。ここもやわらかいです。ここも、軟骨なんです。その上に移動すると目の付け根あたりまで堅い部分があります。これが『鼻骨』です。僕はこのとき、この『鼻骨』が『折れて』、かつ『陥没』していたわけであります。すなわち、顔を正面から見ると、目の付け根の下あたりから鼻筋が曲がっていて(僕の場合はむかって右に大きくずれていました。レフェリーが見た瞬間『折れてら』と『診断』できた由縁です。)、なおかつ横からみると鼻が顔面に陥没して凹んでいる、という状態だったわけです。簡単にいうと部分的にですが顔が原型をとどめておりません、ってことです。

 救急車には僕らの試合を観戦にきてくれていたOBの吉本さんが付き添いといて同乗してくれました。やがて、運び込まれた閑散とした大学病院(日曜日でしたから)では『耳鼻科』に行かされました。そのときは、突然のことに驚きつつもまさかあんなことが待っているとは思いもしなかったので、へえ、外科じゃないのか、などと妙に余裕をもって思った覚えがあります。

 待合室で、鼻をおさえつつ吉本さんと待っていると一旦奥に引っ込んだ医者が現れて、
 「ちょっとこっち来て。」
 とすぐ隣の診察室に僕を招きいれました。そして、歯医者の診察用のそれに似た椅子に上を見て座らせられると、淡々と、しかし、こちらに心の準備など与えてくれない早さで、
 「麻酔するから、ちょっと痛いよ。」
 と言うや否や、注射か笑気ガス吸引でもするのかな、と一瞬閃いた僕のその頭を、彼はその言葉のテンションとは裏腹に抱え込むようにがっちりと抑え込え、いきなり、長さ50センチ大、太さ1センチくらいの金属棒を右の鼻の奥深くに突き刺しました。
 「!」
 どうやらその金属棒の先に『麻酔薬』がついているらしいのですが、それは突き刺してから効いてくるわけであって突き刺すときの痛みは尋常ではありません。『痛い!』脳天に突き抜けるような痛みに我を失っている僕にかまわず、間髪をいれずに頭を押さえ込んだまま、左の鼻の穴にも金属棒が差し込まれました。
 「!!!!」
 とにかく痛いです。医者が『ちょっと痛いよ』といったのもわかるし、暴れないように強く頭をおさえつけたのもよくわかります。こ、これが麻酔、ってこんなに痛いんじゃ本末転倒じゃないのか、これでは『麻酔の麻酔』がいるんではないかね、とその痛さに驚愕しつつ、僕は両鼻から金属棒の半分をぶらさげた状態で涙目になって待合室に戻りました。ただ、僕は痛かったけれど、これは麻酔なんだからこれからやることが痛くないための、いわば産みの苦しみなんだから、それになんだか麻酔が効いてきたみたいで、鼻の奥の痛みも少しやわらいできたんではないかしらん、まあこれ以上痛いことはないわけだ、と思い、金属棒をぶらさげたまま、僕を見て唖然として、その後、笑いだしてしまった吉本さんと雑談などする余裕も出てきました。
 「いやああ、これが『麻酔』ってむちゃくちゃ痛いっす。」
 「鼻の骨を折るって、『一二の三四郎』の『五頭信』みたいですよね、知ってます?』
 だの、
 「どうやって治すんですかね、まさか金槌なんか持ってこないですよね?」
 だのと話した覚えがあります。

 数分後、奥から医者が(40代後半くらいの男性で眼鏡をかけた痩せたお医者さんでした。)でてきました。彼はまるで平静に、
 「じゃ、治そうか。」
 と小さな声で言いました。
 その光景は、僕を慄然とさせました。医者の手には、数種類のやはり50センチ大の面妖な形の金属棒たちとともに『木槌』が握られていたんです。
 え・・・、本当に木槌なんか登場しちゃって・・・・。でもあんなに痛い思いをして麻酔をしたんだから、きっと大丈夫だろう、うん、きっと。

 僕は、再び診察台に仰向けになって座らされると、今度は目の上に布がおかれました。施術の様子を本人にわからないようにするためでしょう。そして、医者が言いました。
 「ちょっと痛いぞ。」
 え?それってさっきも聞いた台詞では・・・・・・。

 「!!!」
 その瞬間、鼻に何かをひっかけて全身を吊り上げられたような衝撃を覚え、体中を走るものすごく鋭い痛みを感じました。医者はまず、面妖な金属棒を右の鼻の穴奥深くに突き刺し、それを力任せにてこの原理でもって、ぐいぐいと左右に動かしていたのです。痛い、耐えられん!
 僕が無言をもってこの荒業に応えていると、次に信じられない行為が行われました。医者は『金属棒ぐいぐい』をやったあと、今度はその金属棒はそのままに、その端を木槌で思いっきり叩きはじめたのです。ちょうど彼が彫刻家でのみをもってそれを叩いているのであれば、僕は削られる木ですね。
 「       」
 その打擲の衝撃と痛みたるや、そのせいで頭も心も真っ白になり言葉も沸いてきません。いつのまにか目を覆っていた布はでどこかへ吹き飛んでしまい、いまや僕のまさに『目と鼻の先』でその荒療治は進行されていました。あの麻酔はなんだったんだ!

 ここでちょっと確認しておきましょう。僕の鼻骨は何人もの体重と地面の間に挟み打ちにあったことで、『陥没して折れた』わけです。と、いうことは今考えると当たり前ですが、それだけの衝撃で損傷した骨を元にもどそうとしたらそれと同じくらいの或いはそれ以上の力を加えないといけない、わけです。そして、力を加えなけばいけないのは『両方の鼻の骨』です。そうです。つまり、同じ作業を『右でやったら左でもやる』んです。

 医者は、金属棒を僕の右の鼻から引っこ抜くと、今度は左の鼻の奥にうんと突き刺し、またしても力任せにこれをぐいぐいと動かしました。そして、当然のように木槌でこの金属棒を2回、3回と激しく乱打しました。
 「っつうう!」
 
 ようやく一連の作業が終わり、僕が息も絶え絶えに悄然と横たわっていると、医者が大きめの手鏡をもってきて、僕の顔に前に持ってくると、すこし小首を傾けながら、言いました。

 「ええと、君の元の鼻の形はこれかな?」

 原型を留めていないから医者にはわかんないので、持ち主の本人に確かめるしかないわけです。
 しかし・・・・・。その鏡に映っている顔は僕が親からもらったそれとは大きく乖離していました。鼻筋こそまっすぐに戻っているものの、鼻骨が大きく隆起していてなんだかごつごつしています。僕の『もともとの鼻』はお世辞にも高いとはいえませんが、鼻筋は通った遠慮がちな形でした。よくいうと赤ん坊のような鼻ですね。こんな自己主張のはげしい鼻筋ではなかったはず・・・・。

 「違います。」

 ああ、なんということを言ってしまったんでしょうか。医者は僕の言を聞くと、
 「あ、そう。どんな風に違うの?」
 「いやもっとこの部分が低くて・・」
 「ふん、じゃ、もう一回ね。」
 医者はまるで祭りのくじ引きかのように気楽に言うと、ふたたび阿鼻叫喚の治療を始めました。今度は僕は、すでに痛みを知っているので、『覚悟』はできていますが、一方で、『知っているからこその恐怖』は尋常なものではありませんでした。ふたたび金属棒をグサッ、ぐいぐいぐいぐい、木槌でかんかんかんかんかん!を今度は初めから最後まで眼前でやり、当然のように右、左、と同じことを繰り返しました。僕は、耐え難い痛みの中で、それでもどうやればこの痛みに打ち克てるだろう、と模索しました。いままでの人生で一番きつかったことと比べてみよう・・・そうだ、高校2年の夏合宿の最終日、あれはきつかったぞ、あれを思えばこんなもの・・・だめです。一瞬頭に浮かんだ夏合宿の最終日も木槌一発で吹き飛んでしまいました。いたあい!

 「ええと、君の元の鼻の形はこれかな?」

 再び小首を傾げつつ鏡を持ってきて医者は尋ねました。僕はもうこれ以上の荒療治はごめんだ、という期待をもって鏡を見ました。
 ・・・・違う。どうしよう・・・・・。
 
 違うんです。まだ元の鼻ではないんです。
 僕は迷いました。ここで、これでいいです、と言えばこの地獄のような痛みの繰り返しから解放される、しかし、ここで妥協すれば、俺は明日から一生この変わりはてた形の鼻とともに生きていくのか・・・。

 初めての鼻骨陥没骨折矯正手術である(たいてい初めてですよね、こんなもの)という勢いのせい、もあったと思います。若さもあった、と思います。もし、今同じ質問をされたら僕はとてもあの痛さに自分が耐える自信はありません。時間的には短い、しかし、非常に濃密な葛藤の後、僕は逞しいことにと言おうか、恐ろしいことにといいましょうか、再度言ったのです。
 「・・違い・・ます。」
 「ええ、そうかあ??骨の形状からしてだいたいこんなもんだと思うけどなあ。」
 「違うんです。」 
 「そう、じゃあ、やるか、きみ、我慢強いねえ、こないだやった奴なんか一発たたいただけでもう駄目です、なんていいやがってさ。」
 いや、決して我慢強くないです。

 僕はみたび木彫りの木になりました。いままでの人生のどんなにつらかったことも比肩できない痛み、それからくる恐怖、と三度対峙することになりました。眼前にせまってくる金属棒、三回目だから慣れてたりして・・・・・、浅はかな期待でした。最早顔面は涙と汗と血でどろどろになりながらの、みたび脳天を貫く痛みを右左の鼻から受け、三度目の鏡での確認です。
 医者が言いました。
 「こんなもんだろ?」
 ・・・ちょっおおと、違うな。
 でも元にはもどんないだろうからこれでよし、としよう。
 というわけで、最終的には親にいただいたそれとは『若干違う鼻の形』で、ぐいぐい、かんかんかん、これかな?、を終えました。

 僕は、ようやくメインの荒療治から開放されました。が、そのあと、-人間の鼻の穴って深いものなんですね、今でも耳に残っているんですけど、医者が看護婦に『血止めしよう。脱脂綿20センチ。』って言ったんです。そんなの入るわけないじゃないか、って思ったことをいまでも覚えています。-、左右の鼻の穴に脱脂綿が20センチずつぎゅうぎゅうと押し込まれ(実はこれも『特筆すべき痛さ』でしたがメインの荒療治に比べればまだ『まし』でした。)、鼻骨の横をなんだか柔らかいもので、固定し、それを右のこめかみから斜めにひだりの口の上あたり、左のこめかみから右の口の上あたり、とテープを貼り付け、-ちょうどテープがX印状に顔を覆う形になります。-、そのテープの端を額に左右に貼ったテープで固定し、最終的には、テープが大きく『又』という漢字を僕の顔面に描くように貼られ、さらに大きなマスクをして顔面真っ白にされて治療を終えました。

 そのとき、同席して一部始終を見ていた吉本さんからは、後日なんども、
 「おまえさ、あのとき、1回目だか2回目のとき高くて格好いい鼻だったのに、なんで『違います!』なんて言ったんだよ。」
 と言われました。でも僕にはなんだか下品な鼻にしか見えなかったんです。あれだけの騒動のあとのことなので、本当のことは言っていないかもしれませんが、一応親は『もともとの鼻よりもよくなった』と言ってくれています。

 尚、肝心(という表現がこの場合適切かどうかは迷うところですが)の試合のほうは、最悪のグラウンドコンディションにもかかわらず、32対0という大差で勝ちました。斯様にスコアまで詳細に覚えているのは、あんな痛い代償を払うほどの試合内容ではなかったじゃねえか、とそのとき思ったからです。

 それと、この話には、ささやかながら後日談がありますが、それはまた次回に。

 ひゅーうう、ぱんぱん!

===終わり==

痛い!!⑤

 そういうたぐいの傷は、当時僕が住んでいた地方では、『きっぽ』と呼ばれていました。たぶん方言だと思うので、何人の方が理解されるか、わかりません。『きっぽ』は僕の理解ではみみず腫れ状の、傷の痕跡、のことをいいます。
 今でも・・・、ええと、今測ってみます・・・だいたい横7センチ、太いところで幅1センチの大きな『きっぽ』が僕の右太ももの外側に横になって残っています。

 あれは、もう『むにゃ十むにゃ数年前』の中学生のときの、まだやや寒さの残る初春の晴れた午後のことでした。
 例によって僕らの家族は、転居を繰り返し、その地方都市にも、行きずりの者として四年間だけ住んでいたんですけど(といっても僕の経歴からいうと四年間も同じ場所に住む、というのは長いほうで、しかも幼稚園から数えて、生まれて初めて『入学と卒業が同じ学校だった、それも多感な中学生時代だった』ということである種僕にとっては特別な土地になりました。)、住んで四年目にあった出来事です。

 そこは、とある瀬戸内海に面した当時は人口10万人程度の地方都市で、空は青くて、高くて、自然が豊かなところでした。家の中にしかけたゴキブリホイホイには、たまにですけど、ねずみだの小さな蛇だのヤモリだのがひっかかっていたし、窓を開けるとその下のレールには巨大なムカデが鎮座していて、夏になると空気中の蝉の声は飽和に達し、庭を見るとトカゲだらけで、その庭(といっても半分藪と渾然一体としたようなもんです。)には美味しい(ただし、なぜか豊作と不作が一年おきでした。)実がなる枇杷の木がありました。

 僕の住んでいた家は、海沿いの繁華街(わずか1kmにも満たないくらいのもんですけど)から徒歩で10分くらい離れた、小高い丘の八合目くらいで(10分も繁華街からはなれたらほとんど何もないです)、丘を登りきった頂きには、僕の中学二年のときの担任の先生が(体育教師でした!)アキレス腱を切って入院し、それと母方の祖父が息をひきとった、そのあたりで一番大きな立派な構えの病院があって、その裏にはお墓がありました。今思うと病院のすぐ裏がお墓ってなんだか、コンビー二エンス、な気もしますけど、ちょっとぞっとしないです。・・そういえばあのお墓(もちろん通学路指定はされていなかったので通ってはいけない道だったんですけど)、僕らはそこを通らないと丘の麓まで舗装された道を一旦降りて大きく迂回して登下校するのが面倒で、いつも墓の横にあるほとんどけもの道みたいな道路を毎日往復していたわけですが、結構な広さにも拘わらず、お寺らしきものはおろか管理事務所みたいなものもなくて、あまり、いやほとんど墓参している人も見かけなかったように思うけど、どういうお墓だったのかしらん・・・。

 ともかくも、その日、僕らはある大きなイベントから解放された日で『帰宅したらみんなでマチに行こう』(田舎なのでたかだか数百メートルの繁華街に行くのをこういうふうに表現するわけです。)ということになりました。それで、じゃあ何時にどこそこに集合、うん、俺は、近所だからシンコウ、と一緒に行くよ、じゃ、後でね、といつもの繁華街に行くだけなのに、わくわくしながら一旦帰宅しました。帰宅した僕は、制服のズボンに(田舎なので学校以外でも制服の着用が義務づけられているんです。)ワイシャツをきて、当時僕にとって最高のお洒落だったadidasの左袖に緑色の三本線の入った白い裏毛のトレーナーを来て自転車にのって家をでました。

 僕の家から丘をいったん病院のほうへ登っていくと病院の手前で小さな十字路にぶつかります。まっすぐ登って行くと病院です。左折すると道はすぐに下っていき、当時その大きな目とかけている眼鏡が似ていることから『アラレ』って呼ばれていた同級生の女の子の家の方に行きます。右折していくとしばらく平坦な道があって、僕の家で飼っていた犬の母犬がいる、一学年下のやっちんの家があって、それをやりすぎると、急峻な下り坂になっていて、その坂を下りきった麓のすぐ右の角、にシンコウ、の家がありました。
 その坂はとても急峻な70~80メートルの坂で、どれくらいかというと、逆に登るとしたら、中学生の運動部で曲がりなりにも主将など務めていた僕の体力をもってして、尚かつ、五段変速の自転車で一番軽いギアで挑んだとしても、3回に1回くらいは頂上まで登りきれない、っていうくらい急な角度の坂でした。もちろん下るときにはものずごいスピードがでます。坂は下りきったところでT字路になっています。

 僕は、ある大きなイベントから解放された、これから仲のよいみんなと街にでて遊ぶんだ、という開放感も手伝って、ご機嫌にその坂を下り始めました。もちろん、先はT字路だし、かように急な坂なので、途中でブレーキをかけつつ速度を調節して麓につくころは右折できるようにするわけです。でも、その日は僕は高揚感からか、本来ブレーキをかける地点でもそのまま引力と慣性の法則にまかせ、ぐんぐんと速度ををあげていき、スピード感を楽しんでいました。海老一染之助・染太郎風に言うと『はい!今日はいつもより長く飛ばしております!でも、これ一緒!』ってとこですかね。
 20Mくらいをノ―ブレーキで飛ばして爽快な気分になったところで、相当スピードがあがってきたので、そろそろこの辺りでいいだろう、と僕は右手で自転車のブレーキを引きました。・・・右手で?そう、このとき、僕の自転車は左手のブレーキ、つまりは後輪のブレーキです、が壊れていたんですね。でも別に前輪だけのブレーキでも差支えないから、修理せずにほうっておいたんです。

 その時、風を切る音に満ちていた僕の耳に、おぞましい音が聞こえました。
 「ビチッ!」
 同時に、自転車は急激に加速していきます。あまりにスピードを上げてからブレーキをかけたので、前輪のブレーキのワイヤ―がその負担に耐えられずに切れてしまったのです。

 僕の生涯の中でこれを『最も予期せぬパニック』と呼ばずしてなんと呼べばいいでしょうか!つい1秒前の予定では、大きく減速し、T字路にむかって行くはずだった僕と自転車は、それとは真反対になすすべもなくものすごい勢いでスピードを増していきます。僕の生涯の中でこれを『最悪の加速度的恐怖体験のひとつ』と呼ばすにしてなんと呼べばいいでしょうか!僕は大袈裟でもなんでもなく、0.1秒単位での判断をせまられることになりました。男子中学生はたいていそうだと思うんですけど、僕も座って足が地面につかない高さの自転車に乗っていました。だから、足を道路につけて留める、ということは無理なんです。いや、もしそれができたとしてもすでに猛スピードで加速している自転車はまともには止まらなかったでしょう。先はT字路です。このままノ―ブレーキで60~70M加速していって右折か左折をすることは絶対にできません。といってT字路につっこめば、それこそ命の危険にかかわるでしょう。靴を車輪に突っ込んで止めるか?いや、そんなことをしたら自転車ごと飛び跳ねてたいへんなことになるに違いありません。無理だ!

 自転車はどんどん加速していきます。最早僕がそれまで体験したことのあるスピード感はとうに超えていました。僕は咄嗟に左右を見渡しました。その時の僕の表情はおそらく恐怖のあまり凍りついて青ざめていたでしょう。つい数秒前高揚感を感じていた同じ人間とは思えないほど、対応策の見当たらない危険に心臓はばっくんばっくんしています。坂の左側は民家がつらなっています。ハンドルを左にきって民家に突っ込む?いや無理だ!民家の塀にこのままのスピードでぶつかったら死んでしまう。民家の先は・・民家のつらなりがきれた坂の麓に小さな公園がありました。あそこにつっこむか?ああ、なんとしたことでしょう、本当に小さな公園なのに、その公園は編状のフェンスで囲まれていて入口は人がひとり通れるくらいの幅しかありません。無理だ!公園までいくころには想像もできないスピードになっているだろうし、それにこんなに『入射角』の低い入口へ自転車で無傷で突入できるわけがない!・・・しかも奇跡的に入れたとして、どうする?公園はわずか15坪くらいしかなく、その中にさらにブランコだの滑り台があります。もし、猛スピードで角度のない入り口へはいりこんだとして、そのあとはブランコや鉄棒や滑り台を避けたとして、公園の突き当りまで行ったらどうなる?だめだ!・・・この間、わずか、2、3秒、しかし、ノーブレーキで急な坂を駆け下りる自転車は2,3秒前― その2,3秒前にしても『はい!今日はいつもより長く飛ばしています!でも・・』だったわけですから -に比べると体感では倍くらいの速度になっています。最早早すぎて自転車から身を投げ出すことも恐ろしくてできません。
 どうしよう、このままでは本当に死んでしまう!僕は確かにその時生命の危機を感じました。正面は無理、左も無理!自転車はすでに坂の中盤に差し掛かっています。1秒判断を検討している間に自転車は倍速でT字路にむかって突進し続けます。僕は左側をあきらめると坂の右側に目を転じました。坂の右側は左側とは違い、麓のほうは民家が連なっています。しかし、もとより、麓近辺でなんとかしよう、というのはすでに絶望的な速度です。僕は民家より上のほう、坂の右上半分に視線を転じました。どんどんと耳元で大きくなる風を切る音が僕の恐怖心を煽りに煽ります。『はい!今日はいつもより長く飛ばしております!でも、ブレーキなし!』です!これを暴走と言わずしてなんというのか僕は言葉を知りません。
 坂の右上部分は、雑木林の繁殖した緩やかな下り斜面になっています。ここに突っ込むしかない!体と自転車を雑木林の群れで止めるんだ。幸いそれほど大きな幹の木はなさそうだ、と判断した瞬間、僕の目に飛び込んできたものは、雑木林と坂道の間に張り巡らされた1.5Mくらいの高さまで、しかも御苦労にも数段に渡ってはりめぐらされた有刺鉄線たちでした。
 『!』
 万事休す、か?雑木林にとめてもらおうという僕の目論見は有刺鉄線の前に脆くも崩れ去ったのです。そこまで執拗に有刺鉄線をはりめぐらさなくても・・・、こんな雑木林の群れに誰がわざわざ入り込むっていうんだっ?俺ぐらいのもんだろう!・・・などと考える余裕はもちろんなく、このままさらに速度を上げて坂が終わってすぐ眼前にあるT字路に突っ込むわけにはいかず、そうかといって、同じく速度があがった状態で、角度のないところから幅の狭い公園の入り口に滑り込む、というのも現実問題としては不可能です。
 『ええい、南無三!』
 僕は、これ以上の速度には耐えきれない、と咄嗟に判断し、ハンドルを右に切り、目を瞑って有刺鉄線群に突っ込みました。
 
 ・・・・『その瞬間』のことは覚えていません。しかし、気がつくと僕は、スポークが折れ、車輪がぐにゃりとまがった完全に崩壊した自転車と共に、いったいどうやったのか、有刺鉄線を越えて、向う側の藪の中に倒れていました。
 『助かった!』
 さっきまで僕の恐怖心を激しく煽っていた風の轟音が嘘のような、初春の静寂の中で僕は自分の無事を知りました。そして次に僕は怪我をしていないか、を確認しました。
 怪我は・・・、盛大にしていました。どういうわけかわかりませんが、僕は右半身から有刺鉄線に突っ込んだらしく、右わき腹あたりから、右足のふくらはぎ部分まで、巨大な熊にでも引っ掻かれたかのように有刺鉄線による切り傷が複数個所ありました。上半身はお気に入りのadidasのトレーナーはもちろん、その下に来ていたワイシャツ、下着も貫通し、着用物全てが見るも無残にびりびりにやぶれ、わき腹のあちこちに傷がありました。さらに驚かされたのは下半身の方で、衣替え前の冬物の厚い生地の学生服のズボンもずたずたに切り裂かれ、太股やふくらはぎにも何か所も有刺鉄線が体に食い込んで、肌がぱっくりと裂けて盛大に出血していました。特に学生服のズボンの切り裂かれ方は何か所も豪快に穴があいていて、そのことは僕に有刺鉄線との衝突の大きさが尋常ならざるものであったことを痛感させました。
 幸いなことに、-本当に幸いに-、傷の高さはわき腹部分で止まっていて、首からうえは無傷でした。
 
 そのあと、これは、本当に若かったな、と思うんですけど、僕はぼろぼろになった自転車をひいて、服がずたずたになったその状態で一旦家に帰り、僕の姿をみて驚愕して声を失った母もものかわ、なんと応急処置をして服を着替えただけでそのまま『予定よりちょっと遅れて』シンコウの家に行き、『みんなで街に繰り出した』んです。

 傷たちの殆んどは、時間差こそあれ、その後いつのまにか癒えていき、無くなりました。しかし、そのうちの何か所かの傷はおそらくすぐ医者に行って縫ってもらわなければいけないような傷だったんだと思います。それが証拠に、有刺鉄線で一番ひどく裂かれた傷は、未だに横7センチ、太さ1センチの『きっぽ』になってくっきりと僕の太股に残っています。
たぶん、もう消えないでしょう。

 僕は、今でもたまにこの『きっぽ』を目にすると、無意識に触ってみながら、いろいろなことを思い出します。
 あのときの恐怖、だけではなく、僕の人生の中ではめずらしく何事にもけれん味もなく一所懸命だった日々、放課後に通った柔剣道場のすえたような汗の匂い、『自然公園』とは名ばかりの中に舗装道路を通しただけの近所の広大な森、丘の頂きの病院裏のお墓の外周を縫うようにはしっていたみんなで歩いた細い砂利道、突き抜けるような青い空、シンコウたちと一緒にいたある晩夜空に走った流れ星、その土地からもまた突然に去ることになりひとりわんわんと泣く僕を見送ってくれた友人たちが立っていた春の日のプラットホーム・・・・。

 親戚がいるでもなく、たった四年間住んだ町なので、その土地(市町村合併で今はもう地名も変わってしまい、当時よりも寂れているそうです。)には将来も行く予定はなく、ときは流れ、いつのまにやら妻子持ちの、日常をやりきるだけに汲汲とする一介のサラリーマンになった僕の記憶の中では、時間的にだけでなく、空間的にも、そこでの日々が、いつの頃からか、とおく、とおく、とてもとおく、感じるようになりました。
 でも、僕の太股に鉄の刺で深く刻印された『きっぽ』は、あの地での四年間は幻ではなかったことを、今でも寡黙に、しかし確かに、教えてくれています。

===終わり===

痛い!!④

 もうずいぶん以前、前すぎて何年まえかも記憶にないですが、ある日の新聞の社会面の、さして大きくない記事に惹きつけられて、熟読してしまったことがあります。それどころか、関係者、特に、被害にあった方には申し訳ないですけど、未だに頭から離れないです。
 それは、刑事事件(恐喝罪だったと思います)を報じる記事で、被害者は、中古車販売業者、容疑者は、えーと、『反社会的方面組織所属の方』、でした。結論からいうと、『反社会的方面組織所属の方』(以下、面倒なのと、あまり触れたくないので、『所属の方』と略しちゃいます。)、が中古車販売業者を脅して、115万円の自動車を115円で買った、というものです。どうしてそういうことが起きちゃったのかというと、中古車販売業者が、ある日、新聞にちらし広告を入れたんです。そして、その広告には、各商品(中古車ですね)の写真と値段が表示されていて、よくあるように、安いという『値ごろ感』を強調するために、価格の数字だけを大きく表示したんだそうです。例えば、『カローラ、99年型、40万円!!』、『シルビア、走行距離500km、75万円!!』というところの価格の数字部分だけほかの表示よりも何倍も大きく表示したんです。これだけなら特に問題はないです。ところが、これは誰の、-つまり中古車販売業者なのか、印刷業者なのか-、ミスなのか記事からはわかりませんでしたけど、なんと価格表示全部に『万』を印字し忘れたのです。新聞にはそのちらしの写真も載ってました。すなわち、『シビック、最新型、90円!!』っていうことになってしまったんです。そしてこの広告を見た『所属の方』が、店に訪れ、『おう景気のよろしい話やなあ、きょうび、あんたらみたいな善良な業者はめずらしいで。わしらあ庶民の味方やなあ。このカローラとシルビアもらうわ。115円やろ、115円、な、そう書いたるわな!』と(言い方は僕の推定です。)その『まんぬき』価格で買って行った、ということなんですね。僕は、この記事を読んだ時、二つの事に考えを巡らせました。

 ひとつは、
「実際に、『所属の方』は、115円を置いていったのか?」
ということです。車を買うとなると、それはやっぱりおにぎりをコンビ二で買うようにはいかないので、いろいろと手続きがあって、それでローンを組んだりなんかして、というわけで普通は、その店のデスクに店員さんと相対して座って、ある程度の時間を書類の記入や会話なんかに割かざるをえないです。それで、僕は頭の中で、脅しに屈した店員さんと『所属の方』が少なくない時間を一緒に過ごしたあと、机のうえに115円を置いていく光景を想像してみるんですけど、『う~~んあり得ん』となかなかしっくりこないんです。『おう、ありがとな、えっと、5円玉あらへんなあ、ええわ、釣りはいらんで』って120円を机のうえに『所属の方』が置いていったんでしょうか。それとも5円のお釣りを渡したのかなあ。ご両名には悪いですが、想像するだに、今でも喜劇にしか見えません。

 もうひとつは、
「確かにミスはミスだけど、『所属の方』がおそらく主張したであろう、『広告通りの値段で買っただけやないかい!』(言い方は僕の推定です)という主張は、『一般的に考えて中古車が35円のはずがない』という常識の前に敗れ去ったんだな・・。新聞で読む限り、この場合はそうあるべきだし、警察の判断や法律解釈にも一般常識的『値ごろ感』を考慮する、という柔軟性は担保されていたわけだ。」
 ということです。

 つまり、この事件の場合、『自動車』の値段のうち、タイヤや車体の原料代がいくらで、組み立てる人件費がいくらで、自動車工場の設備の減価償却費がいくらで、自動車メーカーの利益がいくらで、輸送費がいくらで、なんてほとんどの人は知らないのに、『中身は知らんが、中古自動車が35万円、ならなんとなくあり得て、35円、ならあきらかにおかしい』という『値ごろ感』の市民権が尊重されたわけです。
 一方、全ての『値ごろ感』、いや『値段』だけじゃくてこの『何々ごろ感』が市民権やコンセンサスを得ているわけではなく、ときにはそのことで日常生活に支障をきたすことがあります。
 たとえば、『靴のサイズごろ感』において、『僕の靴のサイズは40センチです。』っていう人がいたら、僕は『えーー、うそだあ!』って思います。たぶん多くの人がそう思われるでしょう。つまり『大人のヒトの足の長さ』には『なんとなくこれくらいだろうというサイズごろ感』が世の中で形成されているわけです。でも、例えば『コーヒー豆の値段が1ポンド5ドル』って言われても、僕には高いんだか安いんだか、さっぱりわかりません。つまりこの場合、僕には『コーヒー豆の値ごろ感』は無いわけです。そして、コーヒー豆の値ごろ感がないからといって日常生活に支障をきたすことはないです。

 しかし、あの時は、まさにこの、さる『ごろ感』の無さ、から僕の日常生活に流血の惨事を招いたのです。
 以前にも何度か紹介もうしあげたように、僕の伴侶は外国人です。結婚式は、さい君の国でやって、日本では面倒なのでしませんでした。(今思うとやっとけばよかったです。なぜって、『公の場で寄ってたかって褒められる(はず)』という経験は凡百の宮仕えの身にはそうあることではないからです。まあ、それはしょうがないです。)さい君の国での結婚式の段取りやなんかは全部さい君がやってくれました。感謝してます。それに結婚指輪もさい君が二人分を一緒に買ってくれました。僕は、結婚式も指輪もお金を送金しただけです。結婚式は滞りなく終わりました。
 問題は指輪でした。僕は、自分で指輪をする習慣も全くなく、女性に指輪をプレゼントしたこともないので、一度も指輪を購入したことがありませんでした。(断っておきますが、リターンの多寡はともかく、女性に貢ぐのはむしろ得意とするほうです。が、どういうわけか指輪には縁がありませんでした)。結婚指輪は、さい君が香港で買ってくれることになりました。さい君のお姉さんも香港の人と国際結婚をして香港に住んでいるので、そこへ遊びに行ったついでに、結婚指輪を買うことにしたんです。

 さい君は、念入りに購入場所、商品にあたりをつけ、僕に電話をしてきました。
 「あのさ、決めたから。金額はかくかくしかじかよ。」
 「うん、ありがとう。異存なしである。」
 「それでサイズは?」
 「へ?」
 「だから、ケイタの指輪のサイズは何号かって聞いてるの!」
 「おー、なるほど、しらないんである。」
 「え?自分の指のサイズ知らないの?」
 「うん、知らない。」
 僕は、『指輪のサイズごろ感』がゼロだったんです。今でもほぼ無いです。というわけで、さい君の驚きをよそに、僕は、会社帰りに貴金属店によって、サイズを測ってもらいました。こういうとき、日本のサービス業の方はサイズを測るだけでも、内心はともかく、嫌な顔ひとつしないので助かります。
 ところで、これは『うすうす』気付いてはいましたが、僕は指が『他人に比して短くて太い』んです。これは遺伝です。父も兄も、指が短くて太いです。自分の指なので自分ではあまり違和感は感じたことはありませんが、たまに無遠慮な人にまじまじと見られたり、『しもやけでまん丸になった小学生の手みたい』と言われたりしたことがあるので、まあ、『普通ではないんだろう』とは思ってました。
 「あの、指のサイズ知りたいんですけど。」
 というと貴金属店の女性店員さんは、愛想よく、
 「はい、少々おまちください。」
 というと、いろんなサイズのサンプル指輪がかかっているすりこぎの孫みたいな円錐状の木型をもってきてくれました。そして、もちろん『しもやけ』呼ばわりなど間違ってもせず、
 「お客様ですと、このあたりかと・・」
 と、彼女の経験から目星をつけたサンプルの指輪を木型からとって僕の薬指にはめてくれようとしましたが、最初の指輪は彼女の経験値を大きく裏切り、僕の指の第一関節を通るのがやっとで、すぐに小さすぎることが判明しました。しかし、そこは、世界に冠たる日本のサービス業です。特に動揺する様子もなく、
 「すみません。ちょっと小さかったですね。では、こちらを・・」
 と彼女は、最初のサンプルより2段階くらい大きな指輪を取り出しました。
 だめです。指輪はまだ指の下まで到達しません。さすがに、少し店員さんの顔に驚きがみられます。
 「では、これを・・」
 と店員さんは、その木型の一番下にある、つまり一番大きな指輪を、半信半疑な表情で試してくれました。
 だめです。
 僕としては、さっきから、
 「・・・・・」
 って言う感じで、なすがままなんですけど、まさか一番大きいのがはまんないなんて。店員さんは苦笑いとも、愛想笑いとも、驚きによる笑いともとれそうな複雑な笑みを浮かべながら、
 「少々お待ちください。」
 と言ってなにやら棚の下のほうを探しはじめました。僕としては、『お待ちください』って言われなくても待つしかないです。すると再び僕に正対した彼女の手には、先ほどより一回り大きな木型が。つまり、これは、『特大サイズ用のサイズサンプル』なわけです。その後、その特大木型にはめられているサンプルを2,3個ためした結果、ようやく僕の指のサイズが判明しました。僕は、買いもしないのにサイズを測るだけで店員さんの手間を予想外にとらせてしまった罪悪感と、特大規格の指の応対をした彼女が内心どう思ってるんだろう、という恥ずかしさをいだきつつその場を後にしました。参考までに、僕は身長はどちらかというと低い方で、体型はあきらかに肥満体ですが、それでも例えばTシャツは既製品でまにあう範囲です。

 ともかくも、目的を達成した僕は香港にいるさい君に連絡しました。
 「あのね、僕の指のサイズは00号である。」
 「うん、わかった。」
 これで僕のミッションは終了、のはずでした。
 ところが、それから2,3日たってさい君から電話があり、
 「ちょっと、指輪のサイズ、まちがえてない?」
 「へ?どういうこと?買ってないの?」
 「うん。」
 「なんで?」
 「だって、指輪屋さんがね、『これは何かの間違いだ』って。」
 「なに、それ。そんなことないよ。特大木型まで出してもらって、
  何回も試した結果なんである。さっさと購入したまい。」
 「でも、指輪屋さんがね『この地で指輪を売って30有余年、
  こんなサイズの人間には出会ったことがない。』って
  いうんだけど。」
 「いや、そういわれても・・。いいからこのあいだ連絡したサイズで
  書いたまえ。」
 「・・うん。」
 どんな指輪屋のおやじか知らんが、自分の『サイズごろ感』によっぽど自信のあるおっさんなんだな、黙って言われた通りの指輪を売ってくれればいいのに、自分の経験値にあぐらをかきゃあがって、夜郎自大も猛々しい、と僕は、さい君との会話を終えました。
 翌日、さい君から電話があり、
 「あのさ、今指輪屋さんにいるんだけど・・・」
 「へ?まだ買ってないの?」
 「うん。」
 「なんで?」
 「いや、それが買おうとしてるんだけど、指輪屋さんが『指輪を
  売って30有余年、こんなサイズの人間には出会ったことがない』
  ってまだ頑張るんだもの。」
 「・・・・。」
 そもそも『指輪のサイズごろ感』を持ち合わせていない僕は、そこまでいわれると、自信が揺らいできました。
 「それでね、『悪いことは言わないから、言ってるサイズより
  ひとつだけ小さいのにしろ』っていうんだけど。」
 「・・・ふ~~む・・。」
 「でもね、そのひとつだけ小さいサイズでさえ『指輪を売って
  30有余年、これがおいらの経験では一番大きい』って。」
 「・・・・。」
 「どうする?」
 
 結局、僕らは、指輪屋の自信にまけて僕の申告より一回り小さいサイズの結婚指輪を購入しました。そして、届いた指輪をはめてみました。
 「どう?」
 と不安げに見守るさい君。
 「うん。なんとかはいった。でもなんかきつい気がする。」
 「ケイタは指輪をしたことがないからそう思うだけよ。
  きついんじゃなくて違和感があるだけなんじゃない?」
 「そうか、そうだよね。」
 ということで、半分無理やりはめた結婚指輪について、半分無理やり自分たちを納得させました。

 しかし。指輪をはめはじめて、1日たち2日たち、して時間を重ねてくると、やっぱり指輪の近辺が、
 「痛い。」
 「慣れてないからじゃない?」
 「そうかなあ。」
 ところが、痛さは一向におさまらず、ある日仕事中にふと薬指を見ると、なんと指輪近辺から血が滲んでいました。その傷は時間をおいてかさぶたになり、さらにかさぶた部分とは別に新たな流血が・・。
 「痛い!!毎日出血してる。」
 「・・・」
 「とりあえず外してもいいかな。血だらけの指でお客さんの
  ところに行くわけにはいかまい。」
 「しょうがないなあ。」
 「やっぱり連絡したサイズで買っておけばよかったのに。」
 「だって、指輪屋さんが『指輪を売って30有余年、
  こんなサイズの・・」
 「いや、だからそれは前にも聞いたんである。」

 というわけで、『指輪サイズごろ感』の無さゆえに、現在に
至っても僕の指には結婚指輪はありません。他意はないです。
 それから、今になってやっぱり正確だったと思われる自分の指輪のサイズも連絡したあとできれいに忘れてしまったし、その後も指輪を買う機会がないので、いまだに『ヒトの指輪のサイズごろ感』は僕にはないです。
 ただ、いつか香港に行って、くだんの『ここで、指輪を売って30有余年っ!、こんな・・・・』と言い切った指輪屋のおやじに僕の指を見せてやりたい、と思っています。
 でも、会ってみたら、そのおやじが『香港における所属の方』
だったりしたら、もの凄くいやだなあ・・・。

=========終わり=========

痛い!!③

 なんでみどりくんはそんなに痛いめにしょっちゅうあうの?って言う人がいるけど、知らないです。僕は、別に普通にすごしてきました。思うにみなさんも痛い思いをしているのに、忘れているだけじゃないんでしょうか?

 と、いうわけで(どういうわけだ)、『痛い!!③』です。今回は、

 *痛さ度      5位
 *衝撃度      3位
 *不可解度     1位
 *スプラッター度  1位

といったところです。

 数年まえ、僕は、とある事情で、二十数年ぶり二回目の兵庫県の西宮での生活をおくっていました(なんでおまえはそういろんなところに住んだことがあるんだ、っていう人がいますが、好んで転々としたわけじゃなくて、それぞれ理由があるんです。だから、不思議がられても困るんですけど。)。
 僕は、さる病にかかっていて仕事もすることができずに、家でぶらぶらしていました。もちろん本意じゃなかったけど、病気だからしょうがないです。そんなある朝、さい君が、自分の体調が悪くて、子供を幼稚園に私の替わりに送って行け、って言いだしました。そんなこと言ったって、俺だって病気なんだけど、と思いつつ、夫婦で体調の悪さを自慢しあっている暇もないし、しょうがないので僕が送っていくことになりました。さい君は、いつも子供にヘルメットをかぶらせて自転車ーいわゆるママチャリですねーで送っています。僕はさい君に、
 「やむをえまい。自転車の鍵を貸したまい。」
と手を差し出しました。しかし、さい君は、送って行けと言いつつ、
 「いや、だめ。タクシーでいけ。」
 と言います。
 「なんで。」
 「だって、危ないから。」
 とさい君。
 後日、僕は、さい君に、
 「ユウの第六感はたいしたものだ、あの時、ちゃん
とタクシーで行くべきでしたな。」
 と言うと、さい君は、たいそうあきれた顔をして、
「何いってんの。そういう問題ではない。だってふらふら
してたもの。」
 って言います。そうなんです。その時、僕は、飲みはじめた薬のせいで、まっすぐ歩けずにふらふらしてた、らしいです。それで、まっすぐ歩けない人間がましてや自転車なんて、とさい君は夫のことではなく、子供のことを心配してタクシーでいくことを命じたわけです。ところが僕は、自分がふらふらしている自覚がないし、そう遠くない、しかも閑散とした道をわざわざタクシーで行くことに、むしろ面倒くささを感じて、大丈夫だ、と言い張って、子供をうしろに乗せて自転車で出発しました。
 そして、幼稚園のすぐそばまで、つつがなく―結果的には。事実は危ない場面もあったのかもしれませんけど―行き着きました。僕は、子供を乗せていることもあり、特にスピードを出しすぎていたわけでもなく、ごく普通に幼稚園にむかって進んで行きました。そして、最後のT字路です。ここを左折して道なりにいくと幼稚園です。自転車はT字路にむかってまっすぐ進んでいきます。T字路の手前には幅50センチくらいのどぶが口を開けていて、その先は、コンクリートブロックの壁です。初夏の、日本晴れ、風の気持ちいい陽気でした。さあ、左折、左折と僕は思いました。思いながらT字路に近づいていきます。さあ左折左折、ここで軽くブレーキをかけてハンドルを左に切って、その結果、左折という現象が完成するわけです。僕の記憶はここで一旦切れます。

 気がついたら、僕は、アスファルトに倒れていました。前輪をどぶに食い込ませたまま横に倒れている自転車と共に。どうやら、曲がり切れずに壁に突っ込んだらしい、と気付いた僕は、はっと息子を探しました。息子は、僕から1メートルくらい離れたところで、しゃがみこんで目の焦点の定まらない顔で道路を見つめながら、ヘルメットの上から頭を掻いてます。幸い息子は全くの無傷です。自転車から放り出されたものの、どうやってか、うまく道路に軟着陸したようです。繰り返すけど、気持ちのいい初夏の朝でした。
 僕は、腑に落ちないなー今でも理屈は理解できませんけどーと思いながらも、『ブレーキをかけずにハンドルも切らずにそのまま壁に直進した』という結果を受け入れ始めました。そして、『体脂肪率30%を超えようかという肥満した小男が、慣性の法則=質量×速さ、にもとることなく、自転車のサドルから前に投げ出されて』しかも『防御の体勢すらとらずに大の字になって』壁にぶつかったこと、も推測でき始めていました。なぜなら、両方の前腕と顎が『激しく痛かった』からです。
 僕は、はて、なんでこんなことに、と思いつつも、本来の目的である子供を幼稚園までおくり届けるために、起き上がります。時を同じくして、ちょうど、お子さんを送って幼稚園から出てきたと思われる女性が、道にひっくりかえる親子と自転車をみて、一瞬無言で驚愕したあと、
 「フジちゃん!大丈夫?」
 と言ってくれました。どうやらたまたま息子と同じクラスのお子さんのお母様のようです。そして、ヘルメットの上から頭を掻きながら無言で頷いた息子の手を取ると、
 「私が送っていきます。大丈夫ですから!」
 と、その方には悪いですが、拉致せんばかりの勢いで息子の手を握ってくれました。息子はおとなしく連れていかれています。僕は、粗相があってはならん、と精いっぱいの笑顔をつくり、
 「申し訳ありません。あの失礼ですが・・・。」
 とお名前を伺おうとしました。するとその方は、まるで見てはいけないものをみてしまったー真夏に突如大雪に出会ったかのーように、僕のせっかくの笑顔をないがしろにしつつ、
 「いえ、フジちゃんのことは知ってますから、
いいですから、いいですから!!」
 とやや狼狽気味にフェードアウトして行ってしまいました。

 僕は、それから、自転車を起こして家に帰ったらしくー自分のことのくせに『らしく』というのは、その記憶もないんですー玄関をあけて、ぽかんとするさい君に、とにかく息子は無傷だから、と何度も報告しながら、保険証と診察券をもって、近くの外科医に行きました。その待ち合い室の鏡で初めて自分の姿を見ました。
 鏡には、両方の前腕が擦り傷で血だらけになり、かつ顎の先端から肉片をだらりと垂らし、そこからぼたりぼたりと血を流す肥満男の姿が。(うへえ、思ったよりひでえなあ。あんなにゆるくてもブレーキをかけないで突っ込むとこんなになっちゃうんだ。)と我ながら驚愕しました。
 そして、さらに、『日本晴れを背景に、顎から肉片をぶら下げつつ、顎と両方の前腕から流血しながら、精一杯の作り笑顔のひと、に「お名前は?」と聞かれた』女性の気持ちを思い、彼女のおののいた表情と、追い払わん、というまでの口調、の理由を理解しました。
 だって、晴れやかな朝、通りに出たら突然、
 『流血男に、作り笑顔で「お名前は?」と聞かれた』
 という状況で、
「いつも、うちの子がお世話に・・、ああ、すずらん組で
 ごいっしょのおきもとこうたの母です。いつも、フジ
 ちゃんのことはうちでもよく話題に・・・」
 なんて肝の据わった応対をする人がいたら、かえって不気味です。

 幸い、傷は、顎を六針縫うだけでした。僕の顎には今でもその傷が残っていて、子供に
 「おい、フジ、この傷、覚えてるか?」
 っていうと、えらいもので、子供は、にこにこしながら、大の字になってジャンプして見せます。でも、なんであの時、視界でとらえていることと、頭で考えていることが一致してるのに、体だけ動かなかったのか、不可解でしょうがないです。
 どうもいまだにわかんないです。
 ブレーキは早めにかけましょう。

=====終わり========

 
プロフィール

緑 慧太

Author:緑 慧太
好きな言葉:『終身雇用』
座右の銘 :『負けるが勝ち』

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